【ネタバレ有り】映画版『ペンギン・ハイウェイ』のこと②

前回記事の続き。感想後半である。原作者の森見登美彦氏がこの作品の着想元であると明言しているスタニスワフ・レムの『ソラリス』を読み、3回目、そして4回目の鑑賞へ臨んだ(もっとも、4回目の鑑賞は前回記事の事実誤認を確認するのが主目的であったが、別の発見もあった。後述する)。

▼前回からの繰り返しになるが、以下はすべて個人的な感想にすぎないので、映画評とかそういうものでは全くない。そういうのを期待されると非常に困るので、そのつもりで読んで欲しい。それと、以下は9割方ぼく個人の記憶に基づいて書かれているので、もし事実と異なることを言っているのであれば指摘が欲しい。今回もそんな具合だ。

▼感想へ入る前に1点だけ。勘違いしてはならないのが、スタニスワフ・レムの『ソラリス』はあくまで作品の核となるイメージを原作者の森見氏へ提供した本であるにすぎず、原作小説の『ペンギン・ハイウェイ』は『ソラリス』のオマージュを主目的として作られた作品では決してない、という点である。着想元はどこまでいっても着想元であって、それ以外の何ものでもない。だから、お姉さん=「幽体」(ハリー)では決してないし、「海」=「ソラリスの海」でもないとぼくは思う。この映画を観るにあたって、『ソラリス』は解釈の補助線程度に扱われるべきだ。もちろん「海」は「ソラリスの海」に近しい何かに相違なく、「海」≒「ソラリスの海」ではあるのだけれど、=と≒ではその意味合いに無視しがたい開きある。そのことを念頭に置いて考えたい(特定の何かを非難する意図は一切ないことをここに誓うが、この辺りを切り分ける観点は重要だ。着想元はどこまでいっても着想元という観点は、作品をひとつの独立した作品として尊重するという意味においてきわめて重要だと思うからだ。無論、多読家である森見氏が著した原作であるのだから『ソラリス』を含む膨大な量の外部参照文献が『ペンギン・ハイウェイ』という作品のベースになっているのは疑う余地もない話だが、それでもなお、という類の話である)。

▼アマチュアの同人作家であるぼくがいうのもおこがましい話だが(本当におこがましい話だ)、ある小説を読んでいるとき、作中で描かれるあれこれからパパッと連想がつながって「このイメージに沿っていけば、何か1本書けるかもしれない」もしくは「この作品を読んで心動かされた部分を膨らませれば、何か1本書けるかもしれない」と思う瞬間が時々ある(小説を何本も書いたことのある人であれば、この感覚はある程度広く共有できるのではないかとぼくは思う)。『ソラリス』を読み感銘を受けた森見氏に訪れた感覚も、きっとそういうものであったのだろうと推察する。『ペンギン・ハイウェイ』を読み解く際、『ソラリス』の内容を援用するのであれば、こうした作家の感覚を理解している必要がある。下記の森見氏へのインタビュー記事を読み、その確信を新たにした。

また、「ペンギン・ハイウェイ」単体でいえば「ソラリス」のイメージに凄く影響されていると思います。小説全体のイメージでいえば、何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない、というような。ソラリスという星が、主人公の過去の死んだ恋人を作って宇宙船に送り込んでくるんだけど、その恋人も自分がどうして作られたのかよく分からずに最終的には消えてしまう。そういった「ソラリス」の骨格のようなものは、「ペンギン・ハイウェイ」の形を固めていくのに使っています。

▼それにしても本作、梅田となんばのTOHOシネマズにて夕方〜夜の回での上映が終わる公開4週目段階ではスクリーンの座席が取りにくいほどの盛況ぶりであった。ターゲットの上映日程において良席を確保しようと思うと、ネット予約開始日に即チケットを確保しなければならないほどであった。もとより1日の上映回数の少ないタイトルではあり、上映館もそう多くない方だとは思うが、口コミで客足が増えていたり、ぼくのようなリピーターがいたり、封切り1カ月に届くかどうかのタイミングでそのような雰囲気がなおも漂い続けていたのは、作品にとって実に幸せなことだったとぼくは思う。

▼ちなみに3回目をTOHOシネマズ梅田で観たときは満席でかつ客のノリがメチャクチャ良く、冒頭の待合室のシーンにおける「この人はぼくが親しくお付き合いしている…」のセリフ、しかも「親しくお付き合いしている」の箇所でクスクス笑いが起きていたのが本当に良かった。

▼また観たい、と思える作品が映画館で上映されているのは素晴らしいことだ。映画というものは映画館での上映が打ち切られたその瞬間、価値の一部を失ってしまう。一般的な家庭では到底ありえないサイズのスクリーン、大きな音量、臨場感のある音響、暗転した照明、そうした映画のためだけに用意された環境をフルに動員した鑑賞体験というのは、自宅にシネコン設備と遜色ない巨大シアターを所有しているなどのレアケースを除いて、映画館でしか得ることのできない価値に相違ない。無論、映画館で観たところで、ホームシアターのスクリーンで観たところで、はたまた20インチ液晶テレビで観たところで、作品そのものの価値が損なわれることはありえない。だが1本の映画を構成する多種多様な価値のなかで、映画館でしか得ることのできない価値というのは、無視できない地位を占めているのではないかと個人的には思うところだ(例えば『ゼロ・ダーク・サーティ』のビンラディン邸強襲シークエンスは、映画館の環境において観ることで、はじめてその真価が発揮される類のものに相違なかった。何しろ家庭用テレビのデフォルト設定値で観ても、「暗すぎて」何が起こっているのか分からない)。

▼この『ペンギン・ハイウェイ』でいえば、海辺のカフェのブレーカーが落ち、室内が暗転するシークエンスなんかがその最たるものだろう。静寂を伴う暗闇のなか、窓から差し込む淡い月明かりにお姉さんの穏やかな顔が浮かび上がり、「アオヤマ君、怖い?」と一言。おそらくあのくだりは映画館で観るそれと家庭の20インチ液晶テレビで観るそれとでは、少々印象が異なって見えるのではないだろうか。暗転した客席の照明と、画面に映し出される暗闇の風合い。広い空間にあって少々飽和気味に聞こえるお姉さんの優しい声色。大スクリーンにあって視界一杯に展開されるお姉さんの表情……。それらすべてが一体となってはじめて、あの目の覚めるような美しいシーンが完成する。大袈裟なようだが、そのように思う(前述の『ゼロ・ダーク・サーティ』もそうだが、映画館のスクリーンは暗闇に覆われたシーンにとても強い)。

▼そういうわけだから、3回目、4回目とまた映画館で観ることができて、ぼくはとても嬉しかった。もう2回も観た映画をまた何度も観に行くことについて、当日が訪れるのを純粋に楽しみにしていたのだから驚きだ。こんな体験はなかなかできない。

▼余談ではあるが、オープニングクレジットにおいて伊藤計劃作品のアニメ化へ関わった主要人物の名前を目にしてしまった。1回目と2回目でなぜ気づかなかったのかという話ではあるが、それはそれとして、その人物の名前をトリガーとして3回目の鑑賞時は心が大いに乱れてしまった。118分の上映時間中、集中力は普段と比べて40〜50%程度は落ち込んでしまったように思う。正直な話、作中で確認したかったポイントはいくつもあったものの、あまり集中して観ることができなかったのは悲しい話に相違ない。もっと強い心を持ちたいと思った(伊藤計劃作品のアニメ化が酷い出来だったという事実は、やっぱり消えない傷となってぼくの心に残ったのだなと再認識した。「死人に口なし」を地で行く所業をなされたのだから、まぁ当然といえば当然の話だ)。

▼いささか楽しくない話はさておき、『ペンギン・ハイウェイ』の原作を読み、2回目を観、更には『ソラリス』を読み、そして3回目と4回目を観たところで、お姉さんという存在は結局謎のままだった。だが『ソラリス』を読んだいまなら、お姉さんを巡る謎を謎のままで終わらせる、その意図するところが何となくわかるような気がしている。先述の森見氏の言葉にあった「何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない」という『ソラリス』の骨格が深く関わっていることは、いうまでもない。

▼そもそもアオヤマ君にとってお姉さんは好奇心をひどく掻き立てられる謎めいた存在であるから、彼にとってお姉さんとは解くべき謎のひとつである(彼はいくつもの研究テーマを抱える「多忙」な人間なのだ)。そして彼にとって、お姉さんを巡る謎は多岐に渡る。お姉さんがペンギンやジャバウォックを出せることは解き明かすべき謎であるし、お姉さんのおっぱいになぜだか惹かれることも解き明かすべき謎であるし、お姉さんの顔立ちを見るとなぜだか嬉しい気持ちになってしまうことも解き明かすべき謎であるし……そういうわけで、アオヤマ君はお姉さんを巡る諸々の謎を解こうと奮闘する。まさに未知とのコンタクトだ(精通さえしていない(?)小学生の男の子が年上のお姉さんに憧れる理由なんて、そもそも当人にとっては謎でしかないだろう。そんな次第で(?)、アオヤマ君にとって年上のお姉さんはまさに未知の存在だ。アオヤマ君は、そうした未知の存在であるお姉さんと科学者的冷静さでもって対峙する。そうした彼の態度は、『ソラリス』において「海」や「幽体」の謎と科学者的冷静さで相対する科学者たちを彷彿とさせる。何という換骨奪胎ぶりだろう。惚れ惚れするほかない)。

そして、物語内においてお姉さん(とペンギンとジャバウォック、そして「海」)を巡る謎の大枠はアオヤマ君によって解き明かされる。お姉さんのおっぱいに惹かれる謎はアオヤマ君にとってまだ難しいのかもしれないが(ウチダ君はかなり真相に近しいところまで行き着いているように見受けられる。このおませさんめ)、お姉さんの顔立ちを見ると何だか嬉しい気持ちになってしまう謎の真相の一端に、アオヤマ君は最後辿り着くことができている。ここは映画版では直接描写されないので、是非とも原作の地の文を参照して欲しい。

▼アオヤマ君はお姉さんという謎めいた存在一生懸命研究し、その大枠の謎を解くことに成功した。だが「お姉さんは人間ではない」というアオヤマ君が導出した答えによって、お姉さんという存在を巡る「究極的な問い」が新たに現出した事実は注目に値するだろう。つまり、お姉さんは本当は何者で、どこからきて、なぜ生まれてきたのか、という問いである。お姉さんとの別離を経験したアオヤマ君が残りの人生を賭けて取り組んでゆく研究は、お姉さんを巡るこれら「究極的な問い」の答えを導き出し、彼女に再び会いに行くことに目的がある。

▼最後のモノローグで彼がいうところの「信念」を支える骨格は、それらのお姉さんを巡る「究極的な問い」にあるといっていい。未知の存在(=お姉さん)との完全なコンタクトは物語のラストにおいてもいまだ達成されていないのだ。だからアオヤマ君は物語が終わったその後も継続して未知とのコンタクトを試み続ける。すべてはお姉さんと再会し、今度こそ2人で電車に乗って海へ行き、「この頃のぼくを語る」ために……。

▼であればこそ、アオヤマ君にとってお姉さんが最後まで謎の存在であり続けることは物語上きわめて重要な意味を持つわけで、お姉さんがやっぱり謎のお姉さんのままであるというのは、「何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない」という、森見氏が『ソラリス』について語った一文を想起させる(お姉さんなる謎の存在の向こう側に、何だかよくわからない「謎めいたシステム」があるのは疑う余地もない事実だ)。

▼より踏み込んだ部分まで言及すれば、ペンギン・ハイウェイ』最終盤におけるアオヤマ君のモノローグは、「幽体」に関する謎の大枠を解き明かし、「海」を巡る「究極的な問い」の一端に触れ、そして人智を越えた新たな謎に直面した『ソラリス』の主人公・クリス・ケルビンによる最後の語りを彷彿とさせる。「残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ」と語るあのシーンだ。最終的な結論として異質な他者との対峙を選ぶクリス・ケルビンの態度は、残されたお姉さんを巡る「究極的な問い」と「信念」をもって向き合おうとするアオヤマ君の態度と、どこか被る。

▼『ソラリス』において描かれる惑星ソラリスは、それこそ人間の理解できる範疇を超えた未知そのものの存在だ。未知の存在はどこまでいっても未知の存在なので、そうした未知の存在がもたらす謎と向き合う行為とはすなわち未知とのコンタクトを根気よく試みる行為に他ならない。『ソラリス』の主人公であるクリス・ケルビンが最後に到達した「異質な他者との対峙」を巡る結論の背景にあるのは、そういった観点だとぼくは思う。

▼人間には理解できない異質な他者と科学者的な冷静さで対峙し、コンタクトを試みる態度……それは『ペンギン・ハイウェイ』のアオヤマ君にそっくりそのまま引き継がれている。お姉さんを巡る「究極的な問い」の答えが謎のまま残ることで、アオヤマ君は人間の理解の範疇を超えた異質な他者=お姉さんに向けて残りの人生を賭けたコンタクトを試み続けるための「信念」を得るというわけだ。『ソラリス』から『ペンギン・ハイウェイ』に引き継がれた主題は、この辺りに関するあれこれに相違ない。

▼お姉さんを巡る「究極的な問い」が謎のまま残されることで、この『ペンギン・ハイウェイ』という物語は完成する(そのため、お姉さんが本当は何者で何のために生まれてきたのか? という問いの答えをぼくら観客が導き出すことは不可能だろう。何より導き出すための材料があまりない。それは物語終了時点のアオヤマ君も同じことだ)。お姉さん側の気持ちはどうなるの? という問題は一端脇へ置くとして、アオヤマ君が人間の理解の範疇を超えた異質な他者=お姉さん(あるいは「世界の果て」)へコンタクトを試み続けるための「信念」は、お姉さんを巡る「究極的な問い」の答えが謎のまま残されることによって完成するのだ(あくまで前向きなラストのモノローグが残す余韻がきわめてウェットなものである理由も、この辺にある)。

▼なぜお姉さんは「お姉さん」という形態でこの作品に登場しなければならなかったのか? という話について。この作品の建てつけとしてめちゃくちゃ良いなと思うのは、そもそも精通さえ経験していない(?????)アオヤマ君にとって、自分の母親でも友だちの母親でもはたまた学校の先生でもない「親しい大人のお姉さん」というのは、まさに異質な他者そのものと位置づけられる存在だったのではないか、という点である。その点、通っている歯科医院で働く美人で気さくで面倒見が良くておっぱいが大きいお姉さん(歯科衛生士)という位置づけは、アオヤマ君とお姉さんを隔てる距離感の表現としてきわめて上手い。上手すぎてビビるほどだ。アオヤマ君にとっての初期段階として、なぜだかわからんが心惹かれる年上の親しいお姉さん(=異質な他者)が、あれよあれよという間にマジモンの異質な他者として理解されてゆき、彼女(=異質な他者)の在り方についての「究極的な問い」との対峙を余儀なくされてゆくという筋立てはかなり上手い。そういうわけで(?)、クリス・ケルビンにとっての「幽体」あるいは「海」あるいは「惑星ソラリス」と、アオヤマ君にとってのお姉さん、この両者は物語上の位置づけにおいてまぁまぁ同じといって良いのであるが、そう考えると『ペンギン・ハイウェイ』と『ソラリス』を関連づけて読み解く上でのきわめて有効な補助線になりはしないだろうか?

▼ヒント、というほど大それた話ではないが、『ソラリス』を援用することでほんの少しだけ理解が深まる箇所がある。クライマックスシーンにおいて描かれる「海」の内部に関する描写だ。そもそも『ソラリス』における惑星ソラリスの「海」とは、人間の抑圧された記憶や一瞬頭のなかだけで思い描いたことなど、深層意識にあるものを実体化させる性質を持っていた。眠っている人間の頭の中から抑圧された記憶を抽出し、実体化させる性質もそこには含まれる。『ペンギン・ハイウェイ』の「海」≒『ソラリス』の「海」であるのだとしたら、お姉さんが夢で見たと話すジャバウォックが実体化された事実は、かなり注目に値する(一般的な読みでいうとお姉さん≒『ソラリス』のハリーではあるのだろうが、そう一筋縄ではいかないというのがこの描写ひとつでわかるはずだ)。眠っているお姉さんの深層意識から「海」が抑圧された記憶などを掬い取り、「幽体」めいて次々と実体化させていたのだとしたら……。実際のところ、悪夢にうなされるお姉さんが自室で身を起こすシーンにおいて、ベランダから屋外へ向かってジャバウォックが這い出ていったかのような描写が明確になされているので、眠っているお姉さんの深層意識を「海」が覗き見ていたことは明らかである。であるからして、「海」の内部にあったものがお姉さんの故郷であったり生家であったり、お姉さんの住むマンションの近くに聳え立つ巨大な給水塔であったり近所のイオンモールであったり、はたまた「海辺の街」のランドスケープがお姉さんの部屋の壁に貼ってあった写真(「ここに行く!」と付箋が貼ってあった写真)と同じものであったりした理由の説明は、一応つくものと思われる。特に蔦の這う廃墟と化したイオンモール海上にぽつりと建っている箇所は、『ソラリス』作中において「海」の真ん中に形成された島に広がる廃墟状の「擬態形成物(ミモイド)」の描写を思い起こさせる。「海」はお姉さんの深層意識内にあるものを雛形として、「擬態形成物(ミモイド)」のようなものを内部に生成していたのではないだろうか? そして蔦が生い茂っていた理由は……そのように考えていくと面白い。

▼更に更に。「海」の内部からもといた住宅街へと帰還し、お姉さんがアオヤマ君の手を引いて海辺のカフェまで走るシーン。ペンギンたちと同じように、街中へ溢れ出た「海」の一部(水球のようなアレ)をお姉さんが蹴って破壊していたカットも示唆的だ。お姉さんが大枠どのような存在か、明言こそされないものの、あの描写である程度示されているのではないだろうか?

▼『ソラリス』で描かれたあれこれを作中の描写と対照すると、お姉さんは「ソラリスの海」に深層意識を盗み見られる人間でもあり、食事を取らない「幽体」でもあり、また「幽体」や「擬態形成物(ミモイド)」を生成・形成する「ソラリスの海」そのものでもあり、もっといえば惑星ソラリス人智を越えた謎そのもの(=クリス・ケルビンが対峙する異質な他者そのもの)でもあるということができはしないだろうか。そんなふうに個人的には思っている。つまり「ソラリスの海」や「幽体」にまつわる着想元のネタは『ペンギン・ハイウェイ』の作中に細かく要素分解された状態で散りばめられていると考えられる。お姉さん≒『ソラリス』のハリーではあるのだろうが、そう一筋縄ではいかない、と先述したのはこの辺りの話に関してだ。

▼上述の描写群について諸々考え、最終的には「だから何だ」という結論に至らざるを得なかった。やっぱり、お姉さんが本当は何者で何のために生まれてきたのか? という問いの答えをぼくら観客が導き出すことは不可能だと思う(お姉さんに関する「究極的な問い」が明かされないことそのものが、着想元である『ソラリス』に対する森見氏からの最大限のリスペクトであるようにも読めるから、お姉さんはやはり謎のお姉さんのままであるべきだということもできるだろう)。

▼「海」の内部に関する描写で『ソラリス』との関連事項をもうひとつ。波打ち際でゼリー状のシロナガスクジラなどが次々と生成されてゆく際の描写について。お姉さんが「神様が遊んでいるみたい」と言う描写に関しては、「ひょっとしたら、まさにこのソラリスは、きみの言う神の赤ん坊のゆりかごなのかもしれないな」という『ソラリス』におけるスナウトのセリフと対応しているものと思われる。惑星ソラリスの「海」が人間にもたらすあらゆる不可解な現象は、実のところ神の赤ん坊が人間には理解できない次元で遊び戯れた結果にすぎないのではないか……というのがそのセリフの意図するところであるが、そうして考えてみると、『ペンギン・ハイウェイ』の「海」がもたらしたあらゆる現象もまた、神の赤ん坊が人間には理解できない次元で遊び戯れた結果なのではないか? と考えることができるかもしれない(アオヤマ君がこれから対峙しなければならない「未知」とはすなわち、そういった人間には理解できない次元で神が遊び戯れているかのように見えるレベルの「未知」である)。

▼ところで上述のシーン、お姉さんのセリフが原作から少々改変されており、これがなかなかニクいセリフの改変だ。原作では「神様が実験してるみたいだな」と言うところを、映画版では「神様が遊んでいるみたい」とお姉さんは言う。「神様が遊んでいるみたい」と言う方が、『ソラリス』へ捧げるオマージュという意味合いはもちろん、「海」がもたらす未知の現象に対する「わけのわからなさ」が前景化するのではないだろうか(当該のセリフを発する際のお姉さんの声音は楽しげでもある。それこそ冒頭、突如現れたペンギンのことを指して「ペンギンってのも不思議だねぇ、わけがわからんねぇ」と言っていたときのニュアンスに近い)。

▼余談だが、唐突に現れた海岸沿いにお姉さんの故郷の街並み(および生家)が現れる原作および映画版の描写は、タルコフスキー版『惑星ソラリス』のラストシーンからモチーフを取ったものではないかとぼくは思う。そう多くない共通項から反射的に導き出した推測に過ぎないが……。

▼それより何よりおねショタの話がしたい(!?)。アオヤマ君がお姉さんを巡る謎を解いてゆく過程において、非常にLoveい描写がひとつある。コーヒーに関する描写がそれである。序盤、海辺のカフェでアオヤマ君がお姉さんとチェスの対局をするシークエンス内において、2人がオーダーした飲み物が一瞬だけ映し出されるカットがあったことを覚えているだろうか? テーブルの上、アオヤマ君側に置かれているのはグラスに注がれたメロンソーダ(サクランボとアイスクリームつき)、お姉さん側に置かれているのがコーヒーカップであり、ここにおいてアオヤマ君はまだコーヒーを飲める年頃ではないことが明示される。おまけにこの時点でお姉さんのおっぱいを見ているアオヤマ君は、自分がなぜお姉さんのおっぱいに目を惹かれてしまうのか分からない。

▼お姉さんがコーラの缶をペンギンに変える瞬間を目撃した日の翌朝、アオヤマ君は興奮気味に「お姉さんについて早急に研究しなければならない」という旨を父親へ向けて報告し、次いでコーヒーを飲みたいとせがんでみせる。そのとき、おそらくアオヤマ君は人生で初めてコーヒーを飲んだに相違なく、父親の「苦いぞ」という忠告通り、苦味に耐えかね「うへぇ〜〜〜」という表情を浮かべて苦悶するのである。そしてあの瞬間、アオヤマ君は間違いなく大人への階段を1歩だけ昇ったのだ。「お姉さんはとても興味深い」という旨を熱っぽく語るアオヤマ君の表情を見、父親が「それは素敵な課題を見つけたね」と言うくだりがとても良い(そもそも『ペンギン・ハイウェイ』という作品は、アオヤマ君が大人になるまでの3千と888日のうち、彼が最も大きな経験をした日々を切り取った物語である)。

▼最終盤。海辺のカフェでお姉さんとの別離を経験するシーン。序盤のチェスのシーンを反復するかのように、2人の飲み物が映し出されるカットがある。そこにはコーヒーカップが2人分並んでいる。アオヤマ君は自らお姉さんにコーヒーが飲みたいと言い、砂糖はいらないと言い、その中身を口にした。かつて大人の飲み物の味に苦悶していた頃のアオヤマ君の姿はそこにはない。その身長差から見上げるだけだった憧れのお姉さんと、最後の最後、別れの間際において、アオヤマ君はいわば対等の存在としてテーブルにつくことができたのだ。

▼お姉さんのことが大好きだったのだという自分自身の感情に、そのときのアオヤマ君は気づいている。ここは原作の描写を読むとわかりやすい。逆にいうと、映像化することで抜け落ちる地の文関連の描写をコーヒーひとつでバシッと表現した映画版スタッフの手腕がここで光る。本当に素晴らしい、Love満載の脚色である(苦いのを我慢しているアオヤマ君の姿を見、「無理しちゃって」と笑うお姉さんの寂しげな声色もまた、切なさを誘う)。

▼注意深く観ていると、最後の海辺のカフェのシーンにおいて、お姉さんがひどく悲しげな表情を浮かべるカットがいくつもあることに気づくはずだ(鑑賞4回目で明確に気づくことができた)。そしてお姉さんは次の瞬間、アオヤマ君に向かって微笑みかける。彼女は最後まで涙を見せない。でも上述の「無理しちゃって」と言った次のシーン、彼女はアオヤマ君の隣に腰掛け、その小さな身体を抱き寄せる。「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ。君は見所のある少年だからな」という慈愛に満ちたセリフとともに……。

▼考えてもみて欲しい。ついこの間までアイスクリームつきのメロンソーダをオーダーしていたアオヤマ君が、なぜいま目の前で無理をしてまでブラックコーヒーを飲んでいるのか。お姉さんにその理由が分からなかったはずがないとぼくは思う。そのとき生じたであろうお姉さんの感情と、そして彼女が一瞬だけ浮かべたひどく悲しげな顔について考えると、本当に胸が締めつけられるような心地がする。そうした描写のあれこれから、やはりあの別離の場において、お姉さん側の物語が描かれていたのは間違いないとぼくは思う。

▼それにしても、砂糖はいらないと言って無理をしてまでブラックコーヒーを飲んでみせるアオヤマ君に対し、お姉さんが「無理しちゃって」と悲しげな声色で言うのシーンは本当に切ない。いずれ再会を果たしたアオヤマ君とお姉さんが、「あの日」と同じようにテーブルを挟み、淹れたてのブラックコーヒーを飲みながら「この頃のぼく」について語り合えればどんなに良いだろうかと、そんなふうに思う次第だ(それはアオヤマ君がお父さんの年齢になったときに実現することかもしれないし、お爺さんの年齢になったときに実現することかもしれない。もしかしたら、アオヤマ君はそのときが訪れるのを待たずにこの世を去るかもしれない。そんな可能性さえある。彼がいつお姉さんとの再会を果たすのか、そもそも再会できるのか、観客である我々は知る由もない)。

▼海辺のカフェを出たお姉さんが空き地の中央に向かって歩み去ってゆくカット。そのとき、彼女の目は大部分が影になっていて描写されない(泣いているようにも、泣くのを我慢しているようにも、はたまた泣いていないようにも取れるよう意図的に設計されていると感じた)。最後の瞬間、彼女はアオヤマ君に向けて笑いかけながら手を振ったが、果たして本当はどうだったのか。その点について考え出すと、海辺のカフェから学校へ戻ったあと、校門でハマモトさんに抱きつかれるシーンにおいてアオヤマ君が泣き腫らしたような顔をしているようにも、あるいは本当に泣くのを我慢し切ったようにも見えるあのカットも少しばかり示唆的だ。泣かないと決めていると言いつつ、お姉さんがいなくなってしまった直後何だかんだ堪えきれずえんえん泣いてしまったアオヤマ君ももちろん良いが、やっぱりあのお姉さんと過ごした夏を通じて少しだけ大人になったアオヤマ君はお姉さんと再会を果たすそのときまで泣かないで欲しいとか、そんなことを思った。何の話だ?(ちなみに原作のアオヤマ君はお姉さんに言った通り、泣いていない)

▼まだまだ書きたいことが盛りだくさん。③へ続く。