【ネタバレ有り】映画版『ペンギン・ハイウェイ』のこと①

▼2018/9/9改訂:4回目鑑賞後、内容一部削除・修正。

▼以下はすべて個人的な感想にすぎないので、映画評とかそういうものでは全くない。そういうのを期待されると非常に困るので、そのつもりで読んで欲しい。それと、以下は9割方ぼく個人の記憶に基づいて書かれているので、もし事実と異なることを言っているのであれば指摘が欲しい。そんな具合だ。

▼書きたいことが多すぎるので記事を分割することにした。

▼映画館に何度も足を運んで観たくなる映画というのは数年に1本程度あるもので、前回はデンゼル・ワシントンの『イコライザー』が「それ」だったのだが(10月に2作目が公開になる)、「その次」がこのタイトルだったというのは自分でもいささか意外だったというか、そんな感じだ。あまりにギャップがありすぎる。「ひと夏の冒険……少年……ボーイ・ミーツ・ガール……やがて訪れる別れ……残された少年の胸に残ったもの……」こういった映画を素直に楽しめる自分がまだいたのか、そういった類の驚きさえ覚えたほどだ(ところで、かつて作られた伊藤計劃作品のアニメ化の出来があまりに酷すぎ、もうアニメ映画は一切信用しないとまで言い切った自分が映画館に足を運んでアニメの映画を観たわけであって、あれはひとつの傷だったのだなと思い至った。年月の経過は傷を癒やす。実際、あれ以来ぼくは約1年と少しもの間一切アニメを観なかった)。

▼「おねショタ」以外、一切合切何の前知識もない状態で1回目を観て、未読だった原作を読み通し、2回目を観ても、やっぱり気になるのはお姉さんの感情に関わるあれこれだった。というより、原作を読んだ上で臨んだ2回目の方がより一層気になったというべきか。それは、アニメになって生き生きと動き回るようになったお姉さんの立ち振る舞いから誘発される感想には違いないのだけれど(他に適切な言い回しが見つからなかったのだが、映画版のお姉さんの振る舞いはまことに「人間らしい」)、もっと重要な理由があるということに、2回目でようやく気づくことができた。

▼というのも映画版の終盤、1つだけ原作の本文にないセリフが足されていたからだ。お姉さんが最後に「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」と寂しげに言い残すシーン。あれである。原作のお姉さんは(こういう言い方が適切であるかどうかはわからないが)いともあっさりアオヤマ君のもとを去ってゆく。それと比べた場合、映画版で描かれる別離のシーンはまったくもって印象が異なるという他なく、原作を読んだ翌日に2回目を観たぼくはその差分に気づいた瞬間、思わず大声を出しそうになった。無論上映中なので黙っていたが、それにしたって上記のセリフ1つが足されるだけでこうも印象が違うのかと思わざるを得ない、そんな素晴らしいアレンジだったと思う。

▼あのセリフはおそらく「海」の破壊に出立する直前においてお姉さんの口から語られる「私なりに未練でもあったのかね?」のセリフによって張られた伏線を回収しており、ということはつまりお姉さんがジャバウォックを生み出す理由って「そういうこと」なんだと個人的に思うわけだが、作中において唯一語られるお姉さんの本心(=感情)が「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」のセリフ1つだというのは、なかなかどうして強烈だ。もし叶うことなら、アオヤマ君が立派な大人になったその日の姿を、お姉さんは見たかったのだ。何て切実な願いなのだろう。

▼お姉さん側のことなんて作中でほとんど描かれないから想像のしようもない(原作では、どちらかというとそういう類の描かれ方をされていたように思う)、という感想は大いにありえるべきだと思う一方、アオヤマ君を優しくぎゅっと抱き締めながら「君が本当の大人になるところを見ていたかった」と寂しげに言うお姉さんの感情を考えると、そのセリフが放たれる瞬間において描かれていたのは紛れもないお姉さん側の物語だったんじゃないかと、そんな風に思えてならなない。もうすぐ自分はこの世界から消えねばならない。そのことを確信していながら、アオヤマ君に「泣くな」と言いつつ、でも「本当の大人になるところを見ていたかった」とその本心を言葉にしてアオヤマ君へ伝えてみせ、そして「私を見つけて、会いにおいでよ」と最後に結ぶ、そのあたりの機微が実に切ない(アオヤマ君だって、立派な大人になった自分の姿をお姉さんに見せたかったはずなのだ)。

(2018/9/11追記:ぼくはあほ、もしくは抜け作なので、「私はなぜ生まれてきたのだろう」の問いかけが原作通り最後の海辺のカフェのシーンで言われるセリフだったという事実に鑑賞3回目でようやく気づき、それを再確認するため4回目を観、「私はなぜ生まれてきたのだろう」の問いが海辺の街の階段で投げかけられるというのはまったくの記憶違いであることを確認した。申し訳ない。以下、事実に基づき論旨を大幅に削除・修正した)それだけではない。終盤、アオヤマ君がお姉さんとの別れを経験する海辺のカフェのシークエンスは、セリフの前後関係も入れ替えられている。「私も、私の思い出も、みんな作りものだったなんて」と語られるお姉さんのセリフは、原作では別れの間際に言われるセリフであったが、映画版ではその前段、「海辺の街」の階段をゆっくりと昇ってゆくシーンにおいてモノローグめかして挿入される。これもまったく印象が違う。というより本来、「海辺の街」の階段で言われるべきセリフであったのではないかとさえ思えるほど、素晴らしいアレンジだったと個人的に思っている。お姉さんが自分の生家だと認識している家の窓を見上げるカットにおいて、そうした問いかけがオーバーラップするものだから、余計にそうだ。どう見ても常世のものとは思えぬ無人の「故郷」の街並みを歩きながら、お姉さんは自らの出自に関する謎をアオヤマ君へ問いかける。画によってセリフに説得力が生じている点で、あれは本当に良いアレンジだ。

▼というわけで、「本当の大人になるところを見ていたかった」「私を見つけて、会いにおいでよ」というお姉さんがアオヤマ君に最も伝えたかった事柄は、最後の最後、二人の旅路の終着点である「海辺のカフェ」において伝えられる。お姉さんが再びアオヤマ君に会うためには彼に先述の問いを解いて貰う必要がある。それはきっと長い年月を費やさなければ解けない類の難問であるだろうし、もしかしたらアオヤマ君が一生かけても解けないほどの難問であるかもしれない。というより、そういった可能性の方が高いようにも思える。お姉さんにようやく会えるのは、もしかしたらアオヤマ君の孫、あるいは曾孫の世代かもしれない、などと妄想をたくましくすると相当切ない(もっとも、アオヤマ君のモノローグを参照すると、自身にお姉さん以外の女の人と結婚する意思はないようである)。

▼それでもアオヤマ君は(彼のいうところの)「信念」に基づき、お姉さんに再び会うため日々研鑽を重ねるのだ。お姉さんがどれだけ大好きだったか、どれだけもう一度会いたいと願っているか、そんな想いを胸に、彼は「世界の果てに通じている道=ペンギン・ハイウェイ」を全速力で駈け抜けてゆく。おそらくは物語が終わったその後もずっと、彼は「世界の果て」に向かって突き進んでいくだろう。……ぼくはこういう結末に極めて弱い。フィクションには終わりがあるが、フィクションが終わったあともその登場人物たちの人生は続いてゆく。そんな類の結末に滅法弱いという次第だ(それを補強するかのような原作にないオリジナルのラストカットと、エンドロールにおいて流れる宇多田ヒカルの主題歌(書き下ろしらしい)も相俟って余計くるものがある)。大人になったアオヤマ君は果たしてお姉さんと再会することができたのだろうか?(原作に続編がない以上、この問いには明確な答えがない。当たり前の話だが、再会できたか否かの答えが明かされないことによって、この作品の結末はより強力なものになっている)

▼先述の「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」というお姉さんの言葉は、「私を見つけて、会いにおいでよ」という言葉の動機をある種明示したものに他ならず(お姉さんが「会いにおいで」と言う動機をそのセリフ1行によって明示したのは、本当に大胆かつ良いアレンジだとぼくは思う)、その言葉はアオヤマ君の「信念」を、それこそ原作で語られる「信念」よりもずっと強固なものにしたに違いない。「世界の果て」でアオヤマ君との再会を待ち侘びるお姉さんに、アオヤマ君は立派な大人になって会いに行く。そうすることで、ようやくお姉さんの望んでいた願いは叶うのだ。

▼そんなこんなでぼくは、どうしてもお姉さん側の物語に惹かれてしまう。消える間際、いつか立派な大人になったアオヤマ君が自分を見つけて会いにきてくれたら嬉しいなとか、そんなことを考えていたのだとしたら、とか、そんな具合に。

▼お姉さんは立ち振る舞いや表情、その他様々な仕草でもって色んなことを語ってくれる。中盤、ハマモト先生が去って行ったあとの歯科医院入口に佇んでいるところとか、ポケットに手を突っ込んで立ちんぼになりながら、何かの終わりを予期して物思いに耽るかのようなあの表情に、ぼくは彼女の側の物語を垣間見た(おそらく、あのときの表情は海へ向かうくだりにおける「夏休みが終わってしまうね」「どんなに楽しくても、必ず終わりは来ます(※ここのアオヤマ君のセリフのディティールがうろ覚え)」のやり取りと対応している)。

▼少し話は逸れるが、そもそもあの新興住宅地において初めてペンギンが目撃されたタイミングが物語冒頭であったのだとしたら、お姉さんはいつからあそこに「いる」のだろう? というのも謎のひとつだ。いつの間にかいるはずのない人間(の外観をしたもの)が「いる」ことになっていて、当たり前の存在としてあの住宅地の生活に溶け込んでいる、というのがもし仮にお姉さんという存在のあり方だったのだとしたら……とか、色々妄想をたくましくすると面白い。何せ、お姉さんは過去に何度もペンギンを出したことがあるかのような口ぶりで自己の能力の内実を語るが、そもそもペンギンが初めて目撃されたのは物語冒頭の時点なのである。とはいえ、この辺りの大ネタ(特にお姉さん周り)は「スタニスワフ・レムの『ソラリス』を読んでから言え」感が当然ある。『ペンギン・ハイウェイ』の着想元がレムの『ソラリス』であるためだ(読んでから3回目に行こうと思っている、この映画のお陰で十数年間積んでいた本に手をつけることができた。ちなみに積んでいたのは国書刊行会Verの新訳単行本であったが、Kindleでハヤカワ青背版が出ていたためそちらを買い直した)。

▼映画のパンフレットにはアオヤマ君のノート(!!!)が付録としてついている。そこでは「海」がどこか別の場所にも出現する可能性について言及されている。「海」と「お姉さん」と「ペンギン」と「ジャバウォック」がワンセットなのだとしたら、仮に別の場所に「海」が現れた場合、そこにお姉さんもいるのではないだろうか……? などと考えてしまう。『ペンギン・ハイウェイ2(そんなものはない)』がありえるのだとしたら、この筋立てかな……などと脊髄反射的に連想が繋がってしまうのはモノ書きとしての性ではあるものの、しかしそれはちょっと読んでみたいぞ、という気がしなくもない。が、「海」の大枠の謎はアオヤマ君によってあらかた解かれてしまっているので、やっぱり『ペンギン・ハイウェイ2』はないと考える方が筋が通る。何の話だ。

▼子どものアオヤマ君から見たお姉さんと、大人のアオヤマ君(?)から見たお姉さんは全然違って見えるのではないかと思う。子どものアオヤマ君から見たお姉さんはとても興味深くミステリアスで素晴らしい「研究対象」となる存在であるが、大人のアオヤマ君(?)から見たお姉さんは、お茶目で豪快で快活で、知的で俗っぽくもありつつ世慣れているようで、その実子どもっぽい一面も併せ持つ素敵な女性として映るのではないだろうか……? 自分でも何を言っているのかもはや分からないが、そんなふうにちょっと角度を変えて見るとなかなか楽しい。

▼お姉さんの喪失にまつわる記憶はアオヤマ君の今後の人生においてある種の「傷」として残り続けるのではないか、とぼくは思う(だからこの物語を単純に「アオヤマ君の成長譚」と括ってしまうのはどうか、と個人的に思っている。ある種の「傷」は人を成長させるのだとしても、だ)。あんなに大好きだったお姉さんが目の前から消えてなくなってしまうのは、それこそ耐えがたい悲しみに相違ない(でもアオヤマ君は泣かないのだ)。無論、そうした「傷」の痛みとはすなわち、後のアオヤマ君を「世界の果て」まで運んでいってくれる原動力に他ならないのだが、そうしたあれこれを経てお姉さん側のセリフに立ち戻ってゆくと、「私を見つけて、会いにおいでよ」というお姉さんの言葉の意味合いがズシリと重くなってゆく。彼女は決して「私のことを忘れてくれ」とは言わない(自分がいなくなった後の世界をアオヤマ君は生きていく、そのことの辛さをお姉さんが分かっていなかったはずがない。その辺の大したことないフィクションであれば、お姉さんに「私のことは忘れて、今後は自分の人生を生きてくれ」的な、ひどく凡庸なことを言わせたであろう。だがこの作品はそうしない。そこが重要だ(※この辺りの設計の背景として、レムの『ソラリス』があるのは理解している))。むしろ「君ならできる」とばかりに残された謎を解いて欲しいと言い残す。「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」「私を見つけて、会いにおいでよ」とも。お姉さんはアオヤマ君の心に、そうしたある種の爪痕を残した。これらの事実は原作ではそれほど前景化していないものの(原作の別離のシーンは本当にあっさりしている。映画版を観たあと当該シーンを読むと驚くこと請け合いだ)、映画版では強烈に前景化している。もちろん、映画版において足された「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」のセリフが効いていることは疑う余地もない話だ。お姉さんは自分の想い(感情と言い換えてもいい)をはっきりと言葉に残し、アオヤマ君のもとから去っていった。想いは言葉にしなければ伝わらないし、残らないものだ(お姉さんの寝顔を見た瞬間、アオヤマ君の胸中に湧いて出た想いがスケッチに添えられたメモとして残ったように)。だから、お姉さんの残した切実な想いは言葉になってアオヤマ君の記憶に残り続ける。彼の記憶に残るお姉さんの言葉は、お姉さんが「作りもの」だったのかもしれないと自己言及した人生の中で得た、確かな実体ある想いであるとぼくは思う(その実体ある想いを得るに至るまでに彼女が通った道筋は、お姉さん自身の物語に他ならない)。そうした想いを言葉として受け取って、アオヤマ君はその後の人生を生きていく。

▼作中でハマモトさん→アオヤマ君へのLOVEが示唆されていながら(パンフレットに掲載された相関図にはそういった内容の事項が明記されている。まぁ、本編を観れば分かることだ。最後にわざとらしいカットさえ差し挟まれる次第なので、その辺は誰が観ても分かるように設計されている)、ラストシーンに至っても、アオヤマ君は「けれどもぼくはもう相手を決めてしまったので」などと冒頭と全く変わらないことを口走る。だが、上記のお姉さんの言葉を受け取ったのちに語られる「けれどもぼくはもう相手を決めてしまったので」という言葉は、必ず会いに行くという決意を伴ったものに相違なく、冒頭のそれよりもいささか想いの質量を伴ったものに聞こえてしまう。そういうわけだから、この物語はアオヤマ君が「世界の果て」を目指す強烈な動機(=「信念」)を得る物語ではあるけれど、それは「成長譚」などと安く括られて良いようなものだろうか……? というのはあると思う。「これはアオヤマ君にとっての「成長譚」だ」という感想のみを抱いた方がもしいたのだとしたら、どうかお姉さんの気持ちを汲んでやってはくれまいか。アオヤマ君が最後に語る「信念」は、そうしたお姉さんの気持ちと表裏一体のものに違いないので……。

▼やっぱり最後にお姉さんがアオヤマ君に伝えた彼女自身の想いはあまりに切実すぎるとぼくは思う。ラストシーンののち、じくっと胸が疼くような心地を覚えるのは、それが理由だ。「結構ウェットだなぁこの話」というのが、ぼくにとっての当面の結論(繰り返すが、ウェットな物語をぼくは好む)。

▼書きたい感想はこれの倍以上あるのだが、疲れたので今回はここまで。気が向いたら(というか、『ソラリス』読了後に3回目を観たら)また②を書くかもしれない。何しろ、この映画の「おねショタ」的側面についてまだ全然言及できていない(この映画、『ソラリス』が着想元のSFだ何だというのは一旦脇に置いておくとして、めちゃくちゃウェットかつLoveい「おねショタ」以外の何だっていうんだ?)。

▼感想の続きは以下にて。