【ネタバレ有り】『天気の子』のこと

▼『天気の子』を観た。直球のセカイ系でありつつ「最初からこの世界は狂っている」と断言し、世界の在りようを変えてしまう行為について「好きな子と一緒にいるためならそれでいい」と言い切らせるパワープレイが、自分でもびっくりするくらい心に響いた。「そこまで断言していいんだ」と思いつつ、「それでいい」と思わせるようなパワーがあり、2019年の「いま」ぼくが観たかったのはこういう話であったのかと、いささか瞠目するような心地を味わった。

▼2019年の「いま」ぼくが求めているのは個人のパーソナルな部分についての話や、目の前にいる人との関係性にフォーカスした話である。「最初からこの世界は狂っている」というのは現実においてもまさにその通りなわけで、じゃあそんな世界で何を寄る辺にして生きてゆけばよいのかというのは、きわめて普遍的な問いに違いない。そこにおいて確かなものは、自分自身の内面にあるパーソナルな領域であったり、目の前にいる人との関係性であったり、そういう自分の認識が届く手近な領域にあるのではないか。とりわけここ数年、「確実にそこに存在し、寄る辺となるような手触りがある」と感じられる領域が、どんどん内側に閉じていっているような実感が強まっている(あくまでぼくの中で)。そういうわけで、世の中の不条理さ、予測のできなさ、わけのわからなさ、ままならなさを「そういうもんだ」と位置づけつつ、ミクロな位相に存在するパーソナルな領域に対する自問であったり、目の前にいる人との向き合い方であったり、そういうところに軸足を置く物語のバランス感覚がぼくの中でいまとても「響く」ものになっている。ちなみに過日プレイした『VA-11 Hall-A』へ惹かれた主な理由は、この辺の認識と密接に関わっているのだが、これはまた別の話。

▼そんな中、『天気の子』は「君と一緒にいられるなら、天気がずっと狂ったままになっても構わない」という旨の台詞を主人公に言い切らせる。これは直球のセカイ系だからこそ可能な類の断言に相違なく、「セカイ系、懐かしい言葉すねぇ……」なんて舐めたことを思っていたぼくは大馬鹿も大馬鹿というか、2019年の現在だからこそセカイ系が響くのだという思考には全然至れておらず、まったくもって恥ずかしい。壊れた世界の中で、個人のパーソナルな領域や目の前の人との関係性しか寄る辺のない状況がいま現在のぼくが置かれた現実であるのだとしたら、セカイ系以上に響くジャンルなんてあるはずないはずじゃないか。何せセカイ系とは「きみとぼくの関係性が社会を抜きにして世界の運命と直結する」ジャンルである。そうしたジャンルを土台として、「きみが大事だ。世界なんてどうでもいい」と力強く言い切る作品が、ぼくにとって響かないはずがない。そんなふうに思ったりした。

▼そういうわけで、終盤の展開の鮮烈さたるや凄まじいものがあったようにぼくは思う。帆高くんにああまで「どうでもいい」とはっきりと言い切られてしまうと、観客としてはぐうの音も出やしない。何にせよ力強い。強烈なパワープレイである。好きな子と一緒にいられるなら世界のことなんてどうでもいい、とまで言い切られたら観客であるぼくたちが言うべきことは何もない。2019年の現在においてぼくが本当に欲しかったのはああいった類の力強い言葉である。愛とか恋とか、そういったパーソナルなあれこれに根ざした目の前の人との関係性を世界の運命よりも上位に取る。ついでに再び世界が壊れて狂ったものになってしまってもそんなことはどうでもいい。そうした宣言を待ち焦がれていたのだと思う。「帆高くん陽菜のこと好きだもんな。あんたの選択は間違っているかもしれないが実に正しい」なんて、そういうふうに受け取るのが実直な鑑賞態度なのではないかと思ったりした。

▼劇場アニメ作品というのは構想を練って企画を立てて実際に動き出してお話を作って形にして、という一連のプロセスを経て世に出るまで凄まじいタイムラグがあるはずなのに、封切られたタイミングでバチっと「いま」にハマってるのはあまりにすごくないか? と思った。聞けば『君の名は。』が公開中のタイミングでもう構想等々動き出していたらしい。そこから『天気の子』封切りまでの間、わずか3年である。しかし同時に、3年というのは世の中のあれこれが変化するには充分な時間だ。3年先を見通した上での構想でなければこうはならないだろうというのがぼくの中での偽らざる感想であり、素直にすげぇなと思ったりした。

▼クライマックスに流れるグランドエスケープの使い方、というか曲のつくりがメチャクチャに良い。イントロからノンビートの展開が続いて見せ場のシーンに入り、一回キックが入ったのち、ここぞというところでキックと入れ替わるようにしてコーラスとクラップがグワッと同時に入ってきて、更にそこへキックが2/4→4/4の拍子でドカンと戻ってくるのだから気持ちが盛り上がらないわけがない。いわばドロップである。何だかクラブミュージックっぽい発想だなとぼくは思った。

▼挿入歌でいえば、廃墟で刑事に囲まれるシーンで「愛にできることはまだあるかい」などとしっとり歌い上げる曲と暴力アンド暴力アンド公務執行妨害、の画の取り合わせが何だか妙でちょっと笑ってしまいそうになった。本編において歌われた「愛にできることはまだあるかい」の回答のひとつが「タックル」そして「公務執行妨害」であることは疑う余地のない事実である。何でこんな書き方をしているかというと、あそこの挿入歌の使い方がいわゆる(悪い意味での)邦画っぽさに他ならないと感じたからで、ああいうのがぼくは好きではない。少なからず好みの問題ではあるにせよ。

平泉成役の平泉成、みたいなアレは何だったんだ。いいのかあれ。ちなみに花澤綾音は「やりすぎ」だと思う。小ネタにしてもちょっとオタクの内輪受けっぽさが小っ恥ずかしかった。

倍賞千恵子の芝居はそもそも別格というか、素人目に見ても格が違うという他なく、圧巻である。語られる言葉ひとつひとつに一筆書きできない情感が篭もっており、身震いがする。すごい。

▼夏美の書いてたエントリーシートの中身がひどく凡庸な文面だったのが、何か異様な質感を伴っていて良かった。ちなみに夏美のキャラそのものについて、あれは何か強靱な「祈り」や「好(ハオ)」のかたちである。他者の「祈り」や「好(ハオ)」は最大限尊重しなければならない。だから夏美のキャラについてリアリティだの男性の願望だの何だの言う奴の言葉は一切合切耳を傾ける必要がない。「祈り」や「好(ハオ)」を表現することは自由になされるべきだからである。

▼作中で帆高くんが取った行動により変わってしまった「世界の形」として終盤水没した東京のランドスケープがこれでもかと描かれるわけだけれど、この作品においては世界=東京でいいのか? そういう範囲におけるセカイ系って考え方でいいのかな? と思いつつ、破壊された東京の景観というのはとりもなおさず『言の葉の庭』で描かれた新宿の景観であったり、はたまた作中で『君の名は。』の瀧と三葉が暮らしを営んでいた街並みに他ならない事実を忘れてはならない。これを水没させたというのは、一連の新海ユニバース的にかなりデカい破壊の描かれ方なんじゃなかろうか。

▼『パト2』好きはこの作品を観た方が良いのではないかと思う。真夏に雪が降る一連のシークエンスにおいて、その筋のオタク的に思い起こすのはやはり『パト2』の戒厳令下の東京の景色であったりするわけで、それこそ羽田の国内線案内表示が一斉に〈欠航〉へ差し替わるカットなんかは『パト2』に人生を狂わされた者的に絶頂ものである。何の話?

▼『ボーン』シリーズ好きはこの作品を観た方が良いのではないかと思う。いよいよ何の話かという感じであるが、『ボーン』シリーズの醍醐味といえば市街地の地形を利用した警察車輛からの逃走シーンである。『天気の子』終盤では、『ボーン・アイデンティティ』冒頭におけるカーチェイスシーンさながらの逃走劇が繰り広げられる。階段をバイクで駆け下りるシーンなんかまさに『ボーン』シリーズまんまである。何の話?

▼どうでもいいオタク語りしていい?(いいよ) 天気の子に出てくる馬勝たせるやつ、ちょっと晴れた程度で芝の含水率変わらないし不良馬場のままだから意味なくね? というのはあるものの理由付けは可能で、雨粒が身体に当たることそのものを極度に嫌がる馬というのはいるっちゃいる。そういう意味では効果があるのかもしれない。ちなみにあそこに出てきた競馬場は東京競馬場。東京9レースの飛鳥特別というレースは実在せず、飛鳥とつく実在のレース名といえば京都競馬場の飛鳥ステークスで、特別戦のレース名はそもそもその競馬場がある土地に由来したものが多いためそこだけディティール端折ったな、みたいなのはあった。何の話?

▼ちなみに自分の贔屓の馬(「行け! そのまま!」と言っていたから逃げ馬なのだろう)を勝たせようとしたおじさんの依頼件名は、ぼくの動体視力によればおそらく「日本ダービーの雪辱を!」なので(よく見るとスクロールしているカットにそれっぽい件名がある)、例の雨を嫌がる馬は日本ダービーで期待されていながら重馬場に泣いて敗北した馬に相違なく、じゃあなんでそんな馬が六月の東京開催の特別戦に出てるんだよ、普通そんなローテ組まねぇよ、という話になる。その理由として唯一考えられるのは、当該馬は日本ダービー後に一年以上の休養を挟んで自己条件のレースに出てきたという筋立てで、要は一年前のダービーで負け、故障か何かで長期休養を余儀なくされた悲運の馬があのおじさんの勝たせようとした馬なのだろうということになる。それが陽菜の力を借りて一年以上ぶりの勝利をもぎ取ったのである。実に良い話じゃないか。何の話?

▼ちなみにバルト9の深夜上映会で2回続けて観たところ、1回目で受けたはずの鮮烈な印象が2回目で見事に掻き消えてしまい、気持ちがサーッと退いていったということがあって、ちょっと興味深かった。あれは画の力に対して目が慣れてしまったことが理由であり、結局のところ画の力でグイグイ引っ張るみたいなところがこの映画の良さであり、そこに目が慣れてしまうと果たして残るものは何だろうか、みたいな自問はぼくのなかであった。答えはここに書くつもりはない。でも良い映画である。少なくともぼくは「喰らった」。それだけは事実である。

▼冒頭で陽菜が廃ビルの前に立つカット、パチンコ屋の「P」「A」「C」「H」「I」「N」「K」「O」の電飾が上2文字分見切れて「C」「H」「I」「N」「K」「O」になっていたのはわざとだったのだろうか。わざとじゃないかとぼくは思う。ちんこ(キャッキャ)。

▼エンドクレジットのアニメーションが良かった。主要なキャスト、スタッフのクレジットのバックで本編を抽象化したアニメーションが流れるやつ。ああいうのが好き。ますます『ボーン』シリーズじゃん。何の話?

▼あと、この映画をもって「セカイ系が終わった」なんて文言を見かけることが多いわけだけれど、半分ネタであるにしても君たち何かを終わらせるの好きだねという他なく、全然終わってないし終わるわけがないとぼくは思っている。優れた先行作品の存在は、後続作品が書かれない理由にはなりえないからだ。