【微ネタバレ有り】実写版『累-かさね-』と『響-HIBIKI-』のこと

 

▼というわけで観た。折しも両作ともある表現分野における「天才」を描いた映画であり、また漫画原作の映画であり、タイトルは主人公の名前1文字であり、そして公開週に至ってはわずか1週差である。両作を比較する理由があるとすればその4点しかないのであるが、しかしこうも共通項の多い2作を観てしまうと比較したくなってくるものである。

▼淵累は天才舞台女優であり、鮎喰響は天才小説家である。そういうわけで、前述の通り両作は「天才」を主人公に据えた映画という点で共通項を持つ作品といえるのだが、「天才」の描き方を巡る描写において著しく異なる点が1つある。それは「天才」である主人公のアウトプットを観客へ向けて実際に見せたか否かの違いであって、結論からいうと『累-かさね-』は(丹沢ニナの顔をした)淵累による天才的芝居を実際に見せ、『響-HIBIKI-』は鮎喰響の書いた『お伽の庭』なる傑作小説を観客へ向けて見せなかった。

▼これは演劇を題材にしているか小説を題材にしているかの違いによるところがまずもって大きく、というのも映画において天才役者を描くのであれば天才が演じる芝居を直接描写することから逃げられるはずもないのは必然であって(なぜなら(丹沢ニナの顔をした)淵累を演じているのは本物の役者なのだ)、対して映画において天才小説家を描くのであれば天才が書いた小説を直接描写する必要性などどこにもない。周りの登場人物たちが「鮎喰響……彼女は何て凄い小説を書くんだ……」と驚いてさえいれば、天才小説家・鮎喰響の天才ぶりを描くことは可能だ。むしろ映画であるのだから彼女が書いた小説の本文を観客に読ませる必要は一切ないといっていい。原作の漫画とて同じ話だ。

▼そんなこんなで『累-かさね-』は(丹沢ニナの顔をした)淵累の生み出すアウトプットの凄まじさをストレートにそのまま役者の芝居を用いて観客に見せるが、『響-HIBIKI-』においては鮎喰響の生み出すアウトプットはある種間接的にしか描かれず、その小説の内実が観客に対し示されることはない。そうした比較観点において、『累-かさね-』という映画は相当挑戦的なことをやっているのはいうまでもない。あの映画は淵累の天才舞台女優ぶりと真っ向から対峙した、相当やべぇ映画なのである。

▼とはいえ、上述の比較観点というのは『響-HIBIKI-』にとって著しく不利な比較観点というほかなく、というのも『響-HIBIKI-』の主人公・鮎喰響が著した傑作小説『お伽の庭』は、映画のストーリーにおいてある種のマクガフィンとして機能するものだからだ。そもそもマクガフィンマクガフィンでしかないので、その内容の詳細を観客に向けて開示する必要はどこにもない(例えば『007スカイフォール』において、漏洩したSISの機密情報の詳細を観客に向けて説明する必要がどこにあるだろうか? 潜伏工作員のリストが漏れた、という事実さえあれば映画のストーリーは充分に成立するのである)。

▼だからというべきか何というべきか、『響-HIBIKI-』がちょっといびつなのは、「天才」を描く映画でありながら、件の「天才」のアウトプットである小説がマクガフィン(=ストーリーを駆動させる重要なアイテムであるが、その内実および詳細を観客に示さなくても困らないもの)として機能してしまっている点である。そんな構造をしているものだから、観客は作中において「天才」の生み出すアウトプットの凄まじさについてマクガフィン=『お伽の庭』を巡る描写の数々から「周りの作家や編集者がそんだけ言うならまぁ本当に天才なんだろうな」という判断を下さざるを得ないというわけだ。

▼無論、それ以外にも鮎喰響が何やら常人とは異なるステージに生きていることを示すエピソードは『お伽の庭』周りの話意外にも多数描写されているのであるが、しかし鮎喰響が「天才」であるという根拠の大元は、映画のストーリー上「『お伽の庭』が低迷する文学界に革命を起こしうるほどの傑作小説である」という事実にまつわる描写群に集約されるといってよく、観客にとって鮎喰響の「天才」っぷりを判断する根拠は、『お伽の庭』を読んで「すげぇ……何て小説を書くんだあの子は……」となっている周辺人物の反応以外にないのである。

▼したがって、マクガフィンたる『お伽の庭』の内容はそれこそ観客に向けて徹底的に秘されるべきだったとぼくは考える。だって周辺人物の反応以外に『お伽の庭』が傑作中の傑作であることを判断するための明確な根拠はないのであるし、だとしたら中途半端に『お伽の庭』の内容を開示するメリットはそれほどない。『お伽の庭』が大したことなさそうな内容であったらそれこそ興ざめであるといえよう。

▼上述の話に沿っていえば、1点メチャクチャ気に入らない描写がある。原稿段階の『お伽の庭』を読んだ編集者が感想として「どこか懐かしい」的なワードを繰り出すくだりだ。ぼくはあのセリフに怒っている。のちに芥川賞直木賞のダブル受賞という快挙を成し遂げ、低迷する文学界に革命をもたらすほどの傑作を読んだ感想が「どこか懐かしい」って何なんだ? 純文学が扱うものごとはそれこそ多岐に渡るわけだけれど、それにしても「どこか懐かしい」はないだろう。『お伽の庭』は鮎喰響なる天才小説家を作中において「天才」たらしめるマクガフィンであるのだから、当のマクガフィンを安いものにするようなセリフが序盤いきなりあるのは、ちょっと不用意にすぎないだろうか。

▼「懐かしい」という感想を抱かせる小説が文学界を変えるほどの純文学小説であるとはどうしても思えない。つまりは上述のセリフが『お伽の庭』が文学史にその名を刻む大傑作であるという説得力を損なっているとぼくは考える。なぜなら、「懐かしい」というのは読み手が持つ個別の体験・記憶に依拠した感想に他ならず、いってみれば「あるある、そういうのあるよね〜〜〜」的な「あるあるネタ」が抱かせる「あるある」という感想と質的にそう変わらないからである。「あるあるネタ」は最大公約数的な、いわば複数の人々の体験・記憶から取り出すことのできる最大の類似点を切り取ったネタであり、もっといえば受け手各々の異なる体験・記憶の中から見出すことのできる「落としどころ」を提示するネタであるとぼくは思う。「懐かしい」という感想も同じ話だ(それこそ「懐かしのアニメTop100」的な特番が得てして最大公約数的な「落としどころ」的なタイトルばかりを上位に取り上げるのを考えれば、まぁそうだろうなという気分になるはずだ)。最大公約数的な「落としどころ」を描いた作品が果たして文学史にその名を刻む大傑作たりえるだろうか? ぼくはそう思わない。

▼何を細かいことをグチグチと、と思う向きもあるかもしれないが、『お伽の庭』がどんな内容の小説なのか観客はあのセリフが含まれるシーンにおいて初めて知るわけであって、ちょっと不用意な描写だなぁという感想が拭えない。鮎喰響なる天才小説家が天才であるのは『お伽の庭』という大傑作を書けるほどの才能を有しているからであって、であればこそ『お伽の庭』に言及するセリフ(それも作中初めてその内容に触れるセリフ)についてはもっと慎重であって欲しかった。ぼくはそう思う。

▼と、いうわけで、雰囲気から察していただければありがたいが、『累-かさね-』と『響-HIBIKI-』なら『累-かさね-』の方を断然オススメする。ドラマっぽい安いセットの内装や『サロメ』のあらあすじ説明パートの野暮ったさ、CGの安さなどは気になるものの、話の本質に関わる部分かというとそうでもないので大した問題にはなりえない。繰り返しになるが、あの映画は淵累の天才舞台女優ぶりと真っ向から対峙した、相当やべぇ映画なのである。映画館でやっているうちに観に行くべし。