コメンタリ#3

▼Robsoulの新譜がすんげぇ良い。4曲どれも良いというのは凄いことだと思う。3月リリースとのこと。

▼現場やサンクラで人様のミックスを聴いていたらめちゃくちゃ良い曲(知らない)が流れ始め、「なんじゃこりゃあ!」となって矢も楯もたまらずShazamしたりMixesDBを漁ったりその他の方法で調べたり、はたまたDJしてる本人に訊いたりして、結局その曲がリリース前もしくはアンリリースドだったことが判明した、みたいな経験が非常に多いように感じる。件のRobsoulの新譜については、Phil Weeks(レーベルオーナーである)のミックスを聴いていたら唐突にA1およびB1の曲が出現し、「なんじゃこりゃあ!」となって矢も楯もたまらず調べたという経緯が存在する。まさしく同じパターンだ。

▼Junior Sanchezのミックスを聴いていたらアホみたいにかっこいい曲が流れ始め、よくよく調べたらアンリリースドだった(のだが、その後気がついたらリリースされていた)、というのも去年あった。本当にこういう体験が多い。

▼各人におけるDigの方法論は自己言及してはならぬ、みたいな不文律は、うっすらと漂う空気じみて、そこかしこに何となく存在するように思う。そんな中、おそらく最も後ろめたいDigの方法は人様のbandcampアカウントのコレクションに張りつく方法だと思う(コレクションについては公開/非公開の設定が可能だが、いずれにせよ、あれは事実上アカウントに紐づいた購入履歴である)。すごい……何の努力もせず良い曲が手に入る……まるで人様の腸の中に住まう寄生虫だ……みたいな手応えすらある。ぼくもよくやる方法ではあるが。

▼フロアでShazamすることは恥ずかしいことでも何でも無い、とかのオカダダさんが言及していたのは非常に大きな出来事であったと思う。「あ、恥ずかしくないんだ」と思え、聴く者の心持ちとしてある種の開き直りを得ることができたのはめちゃくちゃ大きい。良い曲を探すのに手段なんか選んでられないし、格好つけてなんかいられないよな、そうだよな、という。

▼リリース前だったりアンリリースドだったりする曲にすごい魅力を感じる。その人のミックスの流れにすっぽりと収まりつつも、曲そのものはその人のローカル(あるいは近しい人間のローカル)にしか存在しないわけで、ぼくら聴く者にとっては、存在してるんだか存在していないんだかよくわからない(でも確かに存在している)曲であるところが妙に好きだ。

▼アンリリースドといえば、『You Make Me Acid』のリリースを丸2年ものあいだ心待ちにしている反面、このまま永久にリリースされないで欲しい、的な矛盾する想いがぼくの中に存在する。

 ▼カンフーヨガを観た。古式ゆかしいジャッキー映画に惜しみなくドバイマネーが注ぎ込まれ、何とも贅沢な映画が出来たように思う。ともかく景気が良い。海鮮炒飯とビリヤニが同時に大皿で供され、「好きなだけ喰え、今日は奢りだ」と言われたかのような感触があの映画にはあった。

 ▼カンフーヨガといいつつ実際ヨガ要素はそこそこである。潜水呼吸と縄抜けのくだりくらいしかヨガが活躍する要素がない。まぁそんなもんだろう。とはいえ、中華人民共和国とインドの組み合わせというのは凄い。二つの国家の人口を合わせると約27億人である。地球人口に対するおおよそ36%にも達する数だ。そりゃ映画撮ったら凄いものができるよな、という謎の説得力があった。

 ▼高級車を次々とスクラップにするくだりには興奮した。あの景気の良さは西部警察が裸足で逃げ出すレベルである。

  ▼暴走車が道行く車を次々とはね飛ばしてスクラップに変えるのはアクション映画の醍醐味だと思う。近年だと『ジェイソン・ボーン』のラスベガスのくだり、『サボタージュ』終盤のカーチェイスが個人的なお気に入りだ。とりわけ『サボタージュ』終盤のカーチェイスは、車両破壊描写はもちろんのこと、交通事故が人体をいかにして損壊させ死に至らしめるかを異常に丁寧に描いていた。実に好感が持てる。

 ▼ 逆噴射聡一郎氏のハウツー連載、「パルプ小説の書き方」が絶好調だ。異常に面白いしためになる。ワナビーがいかにして商業出版まで漕ぎ着けるか、またはデビューしたばかりの駆け出し商業作家がいかにして生き馬の目を抜く実社会においてサバイブするか、みたいなナレッジがこれでもかと詰まっている。

 ▼ この実社会のことをメキシコ(真の男の国)に喩える逆噴射聡一郎氏は果たして大袈裟なのか? 否、そうではない。作家なる職業に就いて実社会を生き抜くということは常に危険と隣り合わせであり、銃を懐にメキシコ(真の男の国)で日々を生き抜く緊張感とそう大差ないからだ。ここメキシコ砂漠では、そうゆうことを真剣に考えないやつからゆだんして死ぬことになる。

 「パルプ小説の書き方」を読んでいると、時折、これは逆噴射聡一郎氏の実体験に基づく考えなのだな、という直観がはたらく箇所に出くわすことになる。まぁ十中八九、逆噴射聡一郎氏はニンジャスレイヤーほんやくチームの主要関係者であり(かの"ほんやく"なる建前が日本語での執筆を意味するハイコンテキストな何かであることは明白である)、ニンジャスレイヤーの商業出版に至るまでの間、本当に色々あったのだろうなという苦労が察せられる。あのハウツーで書かれる「作家として生き抜くには?」という問いにまつわるナレッジが真に迫るものであればあるほど、そうした確信が強まってゆく。良いハウツーだと思う。読むべし。

▼元乃木坂46伊藤万理華の話をしたところ、アイオタアイオタしてない界隈からぽつぽつと反応らしきものが返ってきて嬉しい。アイオタアイオタしてない人にこそ響く元アイドルであるとぼくは思う(齋藤飛鳥についても同様だ)。

▼繰り返しになるが、長濱ねるからリスペクトされる存在であるというのは本当にスケール感の桁が違う話に他ならないと思う。アイドルになるという人生を勝ち取り、そして選び取るような人間なのだから、当然のごとく伊藤万理華は我々のようなごく平凡な人間とは色々な何かのステージが違うに決まっている。だからこそ長濱ねる程の人間にリスペクトされるスケール感を持ちうるのだとも思う。

▼考えてみると、元乃木坂メンバーの人物が「凄い人」であるのは当たり前の話にすぎない。とんでもない競争率のオーディションにおいて選び抜かれ、正規メンバーとして乃木坂に迎え入れられた経歴を持つ人間には、やはりそれ相応の「人よりも圧倒的に優れている何か」が存在すると思うからだ。

▼まことに手前味噌な話であるが、ぼくの勤めている会社は新卒選考の倍率がめちゃくちゃ高い。いわゆる人気企業だ(入社した後に知る諸々の内実はさておき)。その人事曰くである。「理由なく新卒を選んだり落としたりしませんよ、優秀だと思える根拠が明確にある人間しか採りません。だから新卒で採った人間の中に能力の低い人間などいるはずがないのです。新人を育てる際は、そのことを念頭に置いてください」とのこと(この認識は新人育成を任された際、めちゃくちゃ有益にはたらいた)。もちろん、一般企業とアイドルグループを同列に語ることなどできるはずもない。だが、多数の若い応募者の中から選りすぐりの人材を選び抜き、やがて組織の中で価値を生み出してゆくであろう応募者を抽出するというのは、一般企業の新卒選考もアイドルグループのオーディションもそう本質が変わらないものであるように思う。これは大手のアイドルグループを見る際における、ぼくの基本認識だ。

▼とりわけ坂道グループのアイドルを見るときの視点は、ぼくにとって「優秀な余所の家の子」を見るときの視点と非常に近い。そう、彼女たちは「優秀な余所の家の子」なのだ。無論、この感覚が坂道くらいしか知らないぼくの狭い視野に起因するものであることは自覚している。が、坂道グループのアイドルを追う際、これはこれで結構強力な補助線になったりする。中々どうして悪くない着眼点だと自己満足気味に思うところだ(なおこの視点は、昨日書いた「見上げるくらいで丁度良い」の発言と矛盾しない)。

▼1年前、名古屋の欅坂46の握手会レポを書いたときと、坂道グループのアイドルを見るときの視点がだいぶ変化していることも自覚している。何が作用してそうなったのかは定かで無いが、去年の秋頃欅坂を箱推しし続けることにだいぶ疲れ、ふと乃木坂に流れた頃から徐々に考え方が変化していったような自覚はぼんやりとある。

▼こんなことを言いつつも、嫌味っぽいアイオタにだけはなりたくないなと思う。ここで想定する嫌味っぽいアイオタとはどんなアイオタかというと、妙にメタっぽい視点からアイドルを語りたがるアイオタだ。油断するとぼくの視点はあそらへんの雰囲気に段々と近づいてゆくのではないかという手応えを感じている。なお、上記については特定の何者かをdisる意図は一切ない。