【微ネタバレ有り】実写版『累-かさね-』と『響-HIBIKI-』のこと

 

▼というわけで観た。折しも両作ともある表現分野における「天才」を描いた映画であり、また漫画原作の映画であり、タイトルは主人公の名前1文字であり、そして公開週に至ってはわずか1週差である。両作を比較する理由があるとすればその4点しかないのであるが、しかしこうも共通項の多い2作を観てしまうと比較したくなってくるものである。

▼淵累は天才舞台女優であり、鮎喰響は天才小説家である。そういうわけで、前述の通り両作は「天才」を主人公に据えた映画という点で共通項を持つ作品といえるのだが、「天才」の描き方を巡る描写において著しく異なる点が1つある。それは「天才」である主人公のアウトプットを観客へ向けて実際に見せたか否かの違いであって、結論からいうと『累-かさね-』は(丹沢ニナの顔をした)淵累による天才的芝居を実際に見せ、『響-HIBIKI-』は鮎喰響の書いた『お伽の庭』なる傑作小説を観客へ向けて見せなかった。

▼これは演劇を題材にしているか小説を題材にしているかの違いによるところがまずもって大きく、というのも映画において天才役者を描くのであれば天才が演じる芝居を直接描写することから逃げられるはずもないのは必然であって(なぜなら(丹沢ニナの顔をした)淵累を演じているのは本物の役者なのだ)、対して映画において天才小説家を描くのであれば天才が書いた小説を直接描写する必要性などどこにもない。周りの登場人物たちが「鮎喰響……彼女は何て凄い小説を書くんだ……」と驚いてさえいれば、天才小説家・鮎喰響の天才ぶりを描くことは可能だ。むしろ映画であるのだから彼女が書いた小説の本文を観客に読ませる必要は一切ないといっていい。原作の漫画とて同じ話だ。

▼そんなこんなで『累-かさね-』は(丹沢ニナの顔をした)淵累の生み出すアウトプットの凄まじさをストレートにそのまま役者の芝居を用いて観客に見せるが、『響-HIBIKI-』においては鮎喰響の生み出すアウトプットはある種間接的にしか描かれず、その小説の内実が観客に対し示されることはない。そうした比較観点において、『累-かさね-』という映画は相当挑戦的なことをやっているのはいうまでもない。あの映画は淵累の天才舞台女優ぶりと真っ向から対峙した、相当やべぇ映画なのである。

▼とはいえ、上述の比較観点というのは『響-HIBIKI-』にとって著しく不利な比較観点というほかなく、というのも『響-HIBIKI-』の主人公・鮎喰響が著した傑作小説『お伽の庭』は、映画のストーリーにおいてある種のマクガフィンとして機能するものだからだ。そもそもマクガフィンマクガフィンでしかないので、その内容の詳細を観客に向けて開示する必要はどこにもない(例えば『007スカイフォール』において、漏洩したSISの機密情報の詳細を観客に向けて説明する必要がどこにあるだろうか? 潜伏工作員のリストが漏れた、という事実さえあれば映画のストーリーは充分に成立するのである)。

▼だからというべきか何というべきか、『響-HIBIKI-』がちょっといびつなのは、「天才」を描く映画でありながら、件の「天才」のアウトプットである小説がマクガフィン(=ストーリーを駆動させる重要なアイテムであるが、その内実および詳細を観客に示さなくても困らないもの)として機能してしまっている点である。そんな構造をしているものだから、観客は作中において「天才」の生み出すアウトプットの凄まじさについてマクガフィン=『お伽の庭』を巡る描写の数々から「周りの作家や編集者がそんだけ言うならまぁ本当に天才なんだろうな」という判断を下さざるを得ないというわけだ。

▼無論、それ以外にも鮎喰響が何やら常人とは異なるステージに生きていることを示すエピソードは『お伽の庭』周りの話意外にも多数描写されているのであるが、しかし鮎喰響が「天才」であるという根拠の大元は、映画のストーリー上「『お伽の庭』が低迷する文学界に革命を起こしうるほどの傑作小説である」という事実にまつわる描写群に集約されるといってよく、観客にとって鮎喰響の「天才」っぷりを判断する根拠は、『お伽の庭』を読んで「すげぇ……何て小説を書くんだあの子は……」となっている周辺人物の反応以外にないのである。

▼したがって、マクガフィンたる『お伽の庭』の内容はそれこそ観客に向けて徹底的に秘されるべきだったとぼくは考える。だって周辺人物の反応以外に『お伽の庭』が傑作中の傑作であることを判断するための明確な根拠はないのであるし、だとしたら中途半端に『お伽の庭』の内容を開示するメリットはそれほどない。『お伽の庭』が大したことなさそうな内容であったらそれこそ興ざめであるといえよう。

▼上述の話に沿っていえば、1点メチャクチャ気に入らない描写がある。原稿段階の『お伽の庭』を読んだ編集者が感想として「どこか懐かしい」的なワードを繰り出すくだりだ。ぼくはあのセリフに怒っている。のちに芥川賞直木賞のダブル受賞という快挙を成し遂げ、低迷する文学界に革命をもたらすほどの傑作を読んだ感想が「どこか懐かしい」って何なんだ? 純文学が扱うものごとはそれこそ多岐に渡るわけだけれど、それにしても「どこか懐かしい」はないだろう。『お伽の庭』は鮎喰響なる天才小説家を作中において「天才」たらしめるマクガフィンであるのだから、当のマクガフィンを安いものにするようなセリフが序盤いきなりあるのは、ちょっと不用意にすぎないだろうか。

▼「懐かしい」という感想を抱かせる小説が文学界を変えるほどの純文学小説であるとはどうしても思えない。つまりは上述のセリフが『お伽の庭』が文学史にその名を刻む大傑作であるという説得力を損なっているとぼくは考える。なぜなら、「懐かしい」というのは読み手が持つ個別の体験・記憶に依拠した感想に他ならず、いってみれば「あるある、そういうのあるよね〜〜〜」的な「あるあるネタ」が抱かせる「あるある」という感想と質的にそう変わらないからである。「あるあるネタ」は最大公約数的な、いわば複数の人々の体験・記憶から取り出すことのできる最大の類似点を切り取ったネタであり、もっといえば受け手各々の異なる体験・記憶の中から見出すことのできる「落としどころ」を提示するネタであるとぼくは思う。「懐かしい」という感想も同じ話だ(それこそ「懐かしのアニメTop100」的な特番が得てして最大公約数的な「落としどころ」的なタイトルばかりを上位に取り上げるのを考えれば、まぁそうだろうなという気分になるはずだ)。最大公約数的な「落としどころ」を描いた作品が果たして文学史にその名を刻む大傑作たりえるだろうか? ぼくはそう思わない。

▼何を細かいことをグチグチと、と思う向きもあるかもしれないが、『お伽の庭』がどんな内容の小説なのか観客はあのセリフが含まれるシーンにおいて初めて知るわけであって、ちょっと不用意な描写だなぁという感想が拭えない。鮎喰響なる天才小説家が天才であるのは『お伽の庭』という大傑作を書けるほどの才能を有しているからであって、であればこそ『お伽の庭』に言及するセリフ(それも作中初めてその内容に触れるセリフ)についてはもっと慎重であって欲しかった。ぼくはそう思う。

▼と、いうわけで、雰囲気から察していただければありがたいが、『累-かさね-』と『響-HIBIKI-』なら『累-かさね-』の方を断然オススメする。ドラマっぽい安いセットの内装や『サロメ』のあらあすじ説明パートの野暮ったさ、CGの安さなどは気になるものの、話の本質に関わる部分かというとそうでもないので大した問題にはなりえない。繰り返しになるが、あの映画は淵累の天才舞台女優ぶりと真っ向から対峙した、相当やべぇ映画なのである。映画館でやっているうちに観に行くべし。

【ネタバレ有り】映画版『ペンギン・ハイウェイ』のこと②

前回記事の続き。感想後半である。原作者の森見登美彦氏がこの作品の着想元であると明言しているスタニスワフ・レムの『ソラリス』を読み、3回目、そして4回目の鑑賞へ臨んだ(もっとも、4回目の鑑賞は前回記事の事実誤認を確認するのが主目的であったが、別の発見もあった。後述する)。

▼前回からの繰り返しになるが、以下はすべて個人的な感想にすぎないので、映画評とかそういうものでは全くない。そういうのを期待されると非常に困るので、そのつもりで読んで欲しい。それと、以下は9割方ぼく個人の記憶に基づいて書かれているので、もし事実と異なることを言っているのであれば指摘が欲しい。今回もそんな具合だ。

▼感想へ入る前に1点だけ。勘違いしてはならないのが、スタニスワフ・レムの『ソラリス』はあくまで作品の核となるイメージを原作者の森見氏へ提供した本であるにすぎず、原作小説の『ペンギン・ハイウェイ』は『ソラリス』のオマージュを主目的として作られた作品では決してない、という点である。着想元はどこまでいっても着想元であって、それ以外の何ものでもない。だから、お姉さん=「幽体」(ハリー)では決してないし、「海」=「ソラリスの海」でもないとぼくは思う。この映画を観るにあたって、『ソラリス』は解釈の補助線程度に扱われるべきだ。もちろん「海」は「ソラリスの海」に近しい何かに相違なく、「海」≒「ソラリスの海」ではあるのだけれど、=と≒ではその意味合いに無視しがたい開きある。そのことを念頭に置いて考えたい(特定の何かを非難する意図は一切ないことをここに誓うが、この辺りを切り分ける観点は重要だ。着想元はどこまでいっても着想元という観点は、作品をひとつの独立した作品として尊重するという意味においてきわめて重要だと思うからだ。無論、多読家である森見氏が著した原作であるのだから『ソラリス』を含む膨大な量の外部参照文献が『ペンギン・ハイウェイ』という作品のベースになっているのは疑う余地もない話だが、それでもなお、という類の話である)。

▼アマチュアの同人作家であるぼくがいうのもおこがましい話だが(本当におこがましい話だ)、ある小説を読んでいるとき、作中で描かれるあれこれからパパッと連想がつながって「このイメージに沿っていけば、何か1本書けるかもしれない」もしくは「この作品を読んで心動かされた部分を膨らませれば、何か1本書けるかもしれない」と思う瞬間が時々ある(小説を何本も書いたことのある人であれば、この感覚はある程度広く共有できるのではないかとぼくは思う)。『ソラリス』を読み感銘を受けた森見氏に訪れた感覚も、きっとそういうものであったのだろうと推察する。『ペンギン・ハイウェイ』を読み解く際、『ソラリス』の内容を援用するのであれば、こうした作家の感覚を理解している必要がある。下記の森見氏へのインタビュー記事を読み、その確信を新たにした。

また、「ペンギン・ハイウェイ」単体でいえば「ソラリス」のイメージに凄く影響されていると思います。小説全体のイメージでいえば、何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない、というような。ソラリスという星が、主人公の過去の死んだ恋人を作って宇宙船に送り込んでくるんだけど、その恋人も自分がどうして作られたのかよく分からずに最終的には消えてしまう。そういった「ソラリス」の骨格のようなものは、「ペンギン・ハイウェイ」の形を固めていくのに使っています。

▼それにしても本作、梅田となんばのTOHOシネマズにて夕方〜夜の回での上映が終わる公開4週目段階ではスクリーンの座席が取りにくいほどの盛況ぶりであった。ターゲットの上映日程において良席を確保しようと思うと、ネット予約開始日に即チケットを確保しなければならないほどであった。もとより1日の上映回数の少ないタイトルではあり、上映館もそう多くない方だとは思うが、口コミで客足が増えていたり、ぼくのようなリピーターがいたり、封切り1カ月に届くかどうかのタイミングでそのような雰囲気がなおも漂い続けていたのは、作品にとって実に幸せなことだったとぼくは思う。

▼ちなみに3回目をTOHOシネマズ梅田で観たときは満席でかつ客のノリがメチャクチャ良く、冒頭の待合室のシーンにおける「この人はぼくが親しくお付き合いしている…」のセリフ、しかも「親しくお付き合いしている」の箇所でクスクス笑いが起きていたのが本当に良かった。

▼また観たい、と思える作品が映画館で上映されているのは素晴らしいことだ。映画というものは映画館での上映が打ち切られたその瞬間、価値の一部を失ってしまう。一般的な家庭では到底ありえないサイズのスクリーン、大きな音量、臨場感のある音響、暗転した照明、そうした映画のためだけに用意された環境をフルに動員した鑑賞体験というのは、自宅にシネコン設備と遜色ない巨大シアターを所有しているなどのレアケースを除いて、映画館でしか得ることのできない価値に相違ない。無論、映画館で観たところで、ホームシアターのスクリーンで観たところで、はたまた20インチ液晶テレビで観たところで、作品そのものの価値が損なわれることはありえない。だが1本の映画を構成する多種多様な価値のなかで、映画館でしか得ることのできない価値というのは、無視できない地位を占めているのではないかと個人的には思うところだ(例えば『ゼロ・ダーク・サーティ』のビンラディン邸強襲シークエンスは、映画館の環境において観ることで、はじめてその真価が発揮される類のものに相違なかった。何しろ家庭用テレビのデフォルト設定値で観ても、「暗すぎて」何が起こっているのか分からない)。

▼この『ペンギン・ハイウェイ』でいえば、海辺のカフェのブレーカーが落ち、室内が暗転するシークエンスなんかがその最たるものだろう。静寂を伴う暗闇のなか、窓から差し込む淡い月明かりにお姉さんの穏やかな顔が浮かび上がり、「アオヤマ君、怖い?」と一言。おそらくあのくだりは映画館で観るそれと家庭の20インチ液晶テレビで観るそれとでは、少々印象が異なって見えるのではないだろうか。暗転した客席の照明と、画面に映し出される暗闇の風合い。広い空間にあって少々飽和気味に聞こえるお姉さんの優しい声色。大スクリーンにあって視界一杯に展開されるお姉さんの表情……。それらすべてが一体となってはじめて、あの目の覚めるような美しいシーンが完成する。大袈裟なようだが、そのように思う(前述の『ゼロ・ダーク・サーティ』もそうだが、映画館のスクリーンは暗闇に覆われたシーンにとても強い)。

▼そういうわけだから、3回目、4回目とまた映画館で観ることができて、ぼくはとても嬉しかった。もう2回も観た映画をまた何度も観に行くことについて、当日が訪れるのを純粋に楽しみにしていたのだから驚きだ。こんな体験はなかなかできない。

▼余談ではあるが、オープニングクレジットにおいて伊藤計劃作品のアニメ化へ関わった主要人物の名前を目にしてしまった。1回目と2回目でなぜ気づかなかったのかという話ではあるが、それはそれとして、その人物の名前をトリガーとして3回目の鑑賞時は心が大いに乱れてしまった。118分の上映時間中、集中力は普段と比べて40〜50%程度は落ち込んでしまったように思う。正直な話、作中で確認したかったポイントはいくつもあったものの、あまり集中して観ることができなかったのは悲しい話に相違ない。もっと強い心を持ちたいと思った(伊藤計劃作品のアニメ化が酷い出来だったという事実は、やっぱり消えない傷となってぼくの心に残ったのだなと再認識した。「死人に口なし」を地で行く所業をなされたのだから、まぁ当然といえば当然の話だ)。

▼いささか楽しくない話はさておき、『ペンギン・ハイウェイ』の原作を読み、2回目を観、更には『ソラリス』を読み、そして3回目と4回目を観たところで、お姉さんという存在は結局謎のままだった。だが『ソラリス』を読んだいまなら、お姉さんを巡る謎を謎のままで終わらせる、その意図するところが何となくわかるような気がしている。先述の森見氏の言葉にあった「何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない」という『ソラリス』の骨格が深く関わっていることは、いうまでもない。

▼そもそもアオヤマ君にとってお姉さんは好奇心をひどく掻き立てられる謎めいた存在であるから、彼にとってお姉さんとは解くべき謎のひとつである(彼はいくつもの研究テーマを抱える「多忙」な人間なのだ)。そして彼にとって、お姉さんを巡る謎は多岐に渡る。お姉さんがペンギンやジャバウォックを出せることは解き明かすべき謎であるし、お姉さんのおっぱいになぜだか惹かれることも解き明かすべき謎であるし、お姉さんの顔立ちを見るとなぜだか嬉しい気持ちになってしまうことも解き明かすべき謎であるし……そういうわけで、アオヤマ君はお姉さんを巡る諸々の謎を解こうと奮闘する。まさに未知とのコンタクトだ(精通さえしていない(?)小学生の男の子が年上のお姉さんに憧れる理由なんて、そもそも当人にとっては謎でしかないだろう。そんな次第で(?)、アオヤマ君にとって年上のお姉さんはまさに未知の存在だ。アオヤマ君は、そうした未知の存在であるお姉さんと科学者的冷静さでもって対峙する。そうした彼の態度は、『ソラリス』において「海」や「幽体」の謎と科学者的冷静さで相対する科学者たちを彷彿とさせる。何という換骨奪胎ぶりだろう。惚れ惚れするほかない)。

そして、物語内においてお姉さん(とペンギンとジャバウォック、そして「海」)を巡る謎の大枠はアオヤマ君によって解き明かされる。お姉さんのおっぱいに惹かれる謎はアオヤマ君にとってまだ難しいのかもしれないが(ウチダ君はかなり真相に近しいところまで行き着いているように見受けられる。このおませさんめ)、お姉さんの顔立ちを見ると何だか嬉しい気持ちになってしまう謎の真相の一端に、アオヤマ君は最後辿り着くことができている。ここは映画版では直接描写されないので、是非とも原作の地の文を参照して欲しい。

▼アオヤマ君はお姉さんという謎めいた存在一生懸命研究し、その大枠の謎を解くことに成功した。だが「お姉さんは人間ではない」というアオヤマ君が導出した答えによって、お姉さんという存在を巡る「究極的な問い」が新たに現出した事実は注目に値するだろう。つまり、お姉さんは本当は何者で、どこからきて、なぜ生まれてきたのか、という問いである。お姉さんとの別離を経験したアオヤマ君が残りの人生を賭けて取り組んでゆく研究は、お姉さんを巡るこれら「究極的な問い」の答えを導き出し、彼女に再び会いに行くことに目的がある。

▼最後のモノローグで彼がいうところの「信念」を支える骨格は、それらのお姉さんを巡る「究極的な問い」にあるといっていい。未知の存在(=お姉さん)との完全なコンタクトは物語のラストにおいてもいまだ達成されていないのだ。だからアオヤマ君は物語が終わったその後も継続して未知とのコンタクトを試み続ける。すべてはお姉さんと再会し、今度こそ2人で電車に乗って海へ行き、「この頃のぼくを語る」ために……。

▼であればこそ、アオヤマ君にとってお姉さんが最後まで謎の存在であり続けることは物語上きわめて重要な意味を持つわけで、お姉さんがやっぱり謎のお姉さんのままであるというのは、「何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない」という、森見氏が『ソラリス』について語った一文を想起させる(お姉さんなる謎の存在の向こう側に、何だかよくわからない「謎めいたシステム」があるのは疑う余地もない事実だ)。

▼より踏み込んだ部分まで言及すれば、ペンギン・ハイウェイ』最終盤におけるアオヤマ君のモノローグは、「幽体」に関する謎の大枠を解き明かし、「海」を巡る「究極的な問い」の一端に触れ、そして人智を越えた新たな謎に直面した『ソラリス』の主人公・クリス・ケルビンによる最後の語りを彷彿とさせる。「残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ」と語るあのシーンだ。最終的な結論として異質な他者との対峙を選ぶクリス・ケルビンの態度は、残されたお姉さんを巡る「究極的な問い」と「信念」をもって向き合おうとするアオヤマ君の態度と、どこか被る。

▼『ソラリス』において描かれる惑星ソラリスは、それこそ人間の理解できる範疇を超えた未知そのものの存在だ。未知の存在はどこまでいっても未知の存在なので、そうした未知の存在がもたらす謎と向き合う行為とはすなわち未知とのコンタクトを根気よく試みる行為に他ならない。『ソラリス』の主人公であるクリス・ケルビンが最後に到達した「異質な他者との対峙」を巡る結論の背景にあるのは、そういった観点だとぼくは思う。

▼人間には理解できない異質な他者と科学者的な冷静さで対峙し、コンタクトを試みる態度……それは『ペンギン・ハイウェイ』のアオヤマ君にそっくりそのまま引き継がれている。お姉さんを巡る「究極的な問い」の答えが謎のまま残ることで、アオヤマ君は人間の理解の範疇を超えた異質な他者=お姉さんに向けて残りの人生を賭けたコンタクトを試み続けるための「信念」を得るというわけだ。『ソラリス』から『ペンギン・ハイウェイ』に引き継がれた主題は、この辺りに関するあれこれに相違ない。

▼お姉さんを巡る「究極的な問い」が謎のまま残されることで、この『ペンギン・ハイウェイ』という物語は完成する(そのため、お姉さんが本当は何者で何のために生まれてきたのか? という問いの答えをぼくら観客が導き出すことは不可能だろう。何より導き出すための材料があまりない。それは物語終了時点のアオヤマ君も同じことだ)。お姉さん側の気持ちはどうなるの? という問題は一端脇へ置くとして、アオヤマ君が人間の理解の範疇を超えた異質な他者=お姉さん(あるいは「世界の果て」)へコンタクトを試み続けるための「信念」は、お姉さんを巡る「究極的な問い」の答えが謎のまま残されることによって完成するのだ(あくまで前向きなラストのモノローグが残す余韻がきわめてウェットなものである理由も、この辺にある)。

▼なぜお姉さんは「お姉さん」という形態でこの作品に登場しなければならなかったのか? という話について。この作品の建てつけとしてめちゃくちゃ良いなと思うのは、そもそも精通さえ経験していない(?????)アオヤマ君にとって、自分の母親でも友だちの母親でもはたまた学校の先生でもない「親しい大人のお姉さん」というのは、まさに異質な他者そのものと位置づけられる存在だったのではないか、という点である。その点、通っている歯科医院で働く美人で気さくで面倒見が良くておっぱいが大きいお姉さん(歯科衛生士)という位置づけは、アオヤマ君とお姉さんを隔てる距離感の表現としてきわめて上手い。上手すぎてビビるほどだ。アオヤマ君にとっての初期段階として、なぜだかわからんが心惹かれる年上の親しいお姉さん(=異質な他者)が、あれよあれよという間にマジモンの異質な他者として理解されてゆき、彼女(=異質な他者)の在り方についての「究極的な問い」との対峙を余儀なくされてゆくという筋立てはかなり上手い。そういうわけで(?)、クリス・ケルビンにとっての「幽体」あるいは「海」あるいは「惑星ソラリス」と、アオヤマ君にとってのお姉さん、この両者は物語上の位置づけにおいてまぁまぁ同じといって良いのであるが、そう考えると『ペンギン・ハイウェイ』と『ソラリス』を関連づけて読み解く上でのきわめて有効な補助線になりはしないだろうか?

▼ヒント、というほど大それた話ではないが、『ソラリス』を援用することでほんの少しだけ理解が深まる箇所がある。クライマックスシーンにおいて描かれる「海」の内部に関する描写だ。そもそも『ソラリス』における惑星ソラリスの「海」とは、人間の抑圧された記憶や一瞬頭のなかだけで思い描いたことなど、深層意識にあるものを実体化させる性質を持っていた。眠っている人間の頭の中から抑圧された記憶を抽出し、実体化させる性質もそこには含まれる。『ペンギン・ハイウェイ』の「海」≒『ソラリス』の「海」であるのだとしたら、お姉さんが夢で見たと話すジャバウォックが実体化された事実は、かなり注目に値する(一般的な読みでいうとお姉さん≒『ソラリス』のハリーではあるのだろうが、そう一筋縄ではいかないというのがこの描写ひとつでわかるはずだ)。眠っているお姉さんの深層意識から「海」が抑圧された記憶などを掬い取り、「幽体」めいて次々と実体化させていたのだとしたら……。実際のところ、悪夢にうなされるお姉さんが自室で身を起こすシーンにおいて、ベランダから屋外へ向かってジャバウォックが這い出ていったかのような描写が明確になされているので、眠っているお姉さんの深層意識を「海」が覗き見ていたことは明らかである。であるからして、「海」の内部にあったものがお姉さんの故郷であったり生家であったり、お姉さんの住むマンションの近くに聳え立つ巨大な給水塔であったり近所のイオンモールであったり、はたまた「海辺の街」のランドスケープがお姉さんの部屋の壁に貼ってあった写真(「ここに行く!」と付箋が貼ってあった写真)と同じものであったりした理由の説明は、一応つくものと思われる。特に蔦の這う廃墟と化したイオンモール海上にぽつりと建っている箇所は、『ソラリス』作中において「海」の真ん中に形成された島に広がる廃墟状の「擬態形成物(ミモイド)」の描写を思い起こさせる。「海」はお姉さんの深層意識内にあるものを雛形として、「擬態形成物(ミモイド)」のようなものを内部に生成していたのではないだろうか? そして蔦が生い茂っていた理由は……そのように考えていくと面白い。

▼更に更に。「海」の内部からもといた住宅街へと帰還し、お姉さんがアオヤマ君の手を引いて海辺のカフェまで走るシーン。ペンギンたちと同じように、街中へ溢れ出た「海」の一部(水球のようなアレ)をお姉さんが蹴って破壊していたカットも示唆的だ。お姉さんが大枠どのような存在か、明言こそされないものの、あの描写である程度示されているのではないだろうか?

▼『ソラリス』で描かれたあれこれを作中の描写と対照すると、お姉さんは「ソラリスの海」に深層意識を盗み見られる人間でもあり、食事を取らない「幽体」でもあり、また「幽体」や「擬態形成物(ミモイド)」を生成・形成する「ソラリスの海」そのものでもあり、もっといえば惑星ソラリス人智を越えた謎そのもの(=クリス・ケルビンが対峙する異質な他者そのもの)でもあるということができはしないだろうか。そんなふうに個人的には思っている。つまり「ソラリスの海」や「幽体」にまつわる着想元のネタは『ペンギン・ハイウェイ』の作中に細かく要素分解された状態で散りばめられていると考えられる。お姉さん≒『ソラリス』のハリーではあるのだろうが、そう一筋縄ではいかない、と先述したのはこの辺りの話に関してだ。

▼上述の描写群について諸々考え、最終的には「だから何だ」という結論に至らざるを得なかった。やっぱり、お姉さんが本当は何者で何のために生まれてきたのか? という問いの答えをぼくら観客が導き出すことは不可能だと思う(お姉さんに関する「究極的な問い」が明かされないことそのものが、着想元である『ソラリス』に対する森見氏からの最大限のリスペクトであるようにも読めるから、お姉さんはやはり謎のお姉さんのままであるべきだということもできるだろう)。

▼「海」の内部に関する描写で『ソラリス』との関連事項をもうひとつ。波打ち際でゼリー状のシロナガスクジラなどが次々と生成されてゆく際の描写について。お姉さんが「神様が遊んでいるみたい」と言う描写に関しては、「ひょっとしたら、まさにこのソラリスは、きみの言う神の赤ん坊のゆりかごなのかもしれないな」という『ソラリス』におけるスナウトのセリフと対応しているものと思われる。惑星ソラリスの「海」が人間にもたらすあらゆる不可解な現象は、実のところ神の赤ん坊が人間には理解できない次元で遊び戯れた結果にすぎないのではないか……というのがそのセリフの意図するところであるが、そうして考えてみると、『ペンギン・ハイウェイ』の「海」がもたらしたあらゆる現象もまた、神の赤ん坊が人間には理解できない次元で遊び戯れた結果なのではないか? と考えることができるかもしれない(アオヤマ君がこれから対峙しなければならない「未知」とはすなわち、そういった人間には理解できない次元で神が遊び戯れているかのように見えるレベルの「未知」である)。

▼ところで上述のシーン、お姉さんのセリフが原作から少々改変されており、これがなかなかニクいセリフの改変だ。原作では「神様が実験してるみたいだな」と言うところを、映画版では「神様が遊んでいるみたい」とお姉さんは言う。「神様が遊んでいるみたい」と言う方が、『ソラリス』へ捧げるオマージュという意味合いはもちろん、「海」がもたらす未知の現象に対する「わけのわからなさ」が前景化するのではないだろうか(当該のセリフを発する際のお姉さんの声音は楽しげでもある。それこそ冒頭、突如現れたペンギンのことを指して「ペンギンってのも不思議だねぇ、わけがわからんねぇ」と言っていたときのニュアンスに近い)。

▼余談だが、唐突に現れた海岸沿いにお姉さんの故郷の街並み(および生家)が現れる原作および映画版の描写は、タルコフスキー版『惑星ソラリス』のラストシーンからモチーフを取ったものではないかとぼくは思う。そう多くない共通項から反射的に導き出した推測に過ぎないが……。

▼それより何よりおねショタの話がしたい(!?)。アオヤマ君がお姉さんを巡る謎を解いてゆく過程において、非常にLoveい描写がひとつある。コーヒーに関する描写がそれである。序盤、海辺のカフェでアオヤマ君がお姉さんとチェスの対局をするシークエンス内において、2人がオーダーした飲み物が一瞬だけ映し出されるカットがあったことを覚えているだろうか? テーブルの上、アオヤマ君側に置かれているのはグラスに注がれたメロンソーダ(サクランボとアイスクリームつき)、お姉さん側に置かれているのがコーヒーカップであり、ここにおいてアオヤマ君はまだコーヒーを飲める年頃ではないことが明示される。おまけにこの時点でお姉さんのおっぱいを見ているアオヤマ君は、自分がなぜお姉さんのおっぱいに目を惹かれてしまうのか分からない。

▼お姉さんがコーラの缶をペンギンに変える瞬間を目撃した日の翌朝、アオヤマ君は興奮気味に「お姉さんについて早急に研究しなければならない」という旨を父親へ向けて報告し、次いでコーヒーを飲みたいとせがんでみせる。そのとき、おそらくアオヤマ君は人生で初めてコーヒーを飲んだに相違なく、父親の「苦いぞ」という忠告通り、苦味に耐えかね「うへぇ〜〜〜」という表情を浮かべて苦悶するのである。そしてあの瞬間、アオヤマ君は間違いなく大人への階段を1歩だけ昇ったのだ。「お姉さんはとても興味深い」という旨を熱っぽく語るアオヤマ君の表情を見、父親が「それは素敵な課題を見つけたね」と言うくだりがとても良い(そもそも『ペンギン・ハイウェイ』という作品は、アオヤマ君が大人になるまでの3千と888日のうち、彼が最も大きな経験をした日々を切り取った物語である)。

▼最終盤。海辺のカフェでお姉さんとの別離を経験するシーン。序盤のチェスのシーンを反復するかのように、2人の飲み物が映し出されるカットがある。そこにはコーヒーカップが2人分並んでいる。アオヤマ君は自らお姉さんにコーヒーが飲みたいと言い、砂糖はいらないと言い、その中身を口にした。かつて大人の飲み物の味に苦悶していた頃のアオヤマ君の姿はそこにはない。その身長差から見上げるだけだった憧れのお姉さんと、最後の最後、別れの間際において、アオヤマ君はいわば対等の存在としてテーブルにつくことができたのだ。

▼お姉さんのことが大好きだったのだという自分自身の感情に、そのときのアオヤマ君は気づいている。ここは原作の描写を読むとわかりやすい。逆にいうと、映像化することで抜け落ちる地の文関連の描写をコーヒーひとつでバシッと表現した映画版スタッフの手腕がここで光る。本当に素晴らしい、Love満載の脚色である(苦いのを我慢しているアオヤマ君の姿を見、「無理しちゃって」と笑うお姉さんの寂しげな声色もまた、切なさを誘う)。

▼注意深く観ていると、最後の海辺のカフェのシーンにおいて、お姉さんがひどく悲しげな表情を浮かべるカットがいくつもあることに気づくはずだ(鑑賞4回目で明確に気づくことができた)。そしてお姉さんは次の瞬間、アオヤマ君に向かって微笑みかける。彼女は最後まで涙を見せない。でも上述の「無理しちゃって」と言った次のシーン、彼女はアオヤマ君の隣に腰掛け、その小さな身体を抱き寄せる。「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ。君は見所のある少年だからな」という慈愛に満ちたセリフとともに……。

▼考えてもみて欲しい。ついこの間までアイスクリームつきのメロンソーダをオーダーしていたアオヤマ君が、なぜいま目の前で無理をしてまでブラックコーヒーを飲んでいるのか。お姉さんにその理由が分からなかったはずがないとぼくは思う。そのとき生じたであろうお姉さんの感情と、そして彼女が一瞬だけ浮かべたひどく悲しげな顔について考えると、本当に胸が締めつけられるような心地がする。そうした描写のあれこれから、やはりあの別離の場において、お姉さん側の物語が描かれていたのは間違いないとぼくは思う。

▼それにしても、砂糖はいらないと言って無理をしてまでブラックコーヒーを飲んでみせるアオヤマ君に対し、お姉さんが「無理しちゃって」と悲しげな声色で言うのシーンは本当に切ない。いずれ再会を果たしたアオヤマ君とお姉さんが、「あの日」と同じようにテーブルを挟み、淹れたてのブラックコーヒーを飲みながら「この頃のぼく」について語り合えればどんなに良いだろうかと、そんなふうに思う次第だ(それはアオヤマ君がお父さんの年齢になったときに実現することかもしれないし、お爺さんの年齢になったときに実現することかもしれない。もしかしたら、アオヤマ君はそのときが訪れるのを待たずにこの世を去るかもしれない。そんな可能性さえある。彼がいつお姉さんとの再会を果たすのか、そもそも再会できるのか、観客である我々は知る由もない)。

▼海辺のカフェを出たお姉さんが空き地の中央に向かって歩み去ってゆくカット。そのとき、彼女の目は大部分が影になっていて描写されない(泣いているようにも、泣くのを我慢しているようにも、はたまた泣いていないようにも取れるよう意図的に設計されていると感じた)。最後の瞬間、彼女はアオヤマ君に向けて笑いかけながら手を振ったが、果たして本当はどうだったのか。その点について考え出すと、海辺のカフェから学校へ戻ったあと、校門でハマモトさんに抱きつかれるシーンにおいてアオヤマ君が泣き腫らしたような顔をしているようにも、あるいは本当に泣くのを我慢し切ったようにも見えるあのカットも少しばかり示唆的だ。泣かないと決めていると言いつつ、お姉さんがいなくなってしまった直後何だかんだ堪えきれずえんえん泣いてしまったアオヤマ君ももちろん良いが、やっぱりあのお姉さんと過ごした夏を通じて少しだけ大人になったアオヤマ君はお姉さんと再会を果たすそのときまで泣かないで欲しいとか、そんなことを思った。何の話だ?(ちなみに原作のアオヤマ君はお姉さんに言った通り、泣いていない)

▼まだまだ書きたいことが盛りだくさん。③へ続く。

 

【ネタバレ有り】映画版『ペンギン・ハイウェイ』のこと①

▼2018/9/9改訂:4回目鑑賞後、内容一部削除・修正。

▼以下はすべて個人的な感想にすぎないので、映画評とかそういうものでは全くない。そういうのを期待されると非常に困るので、そのつもりで読んで欲しい。それと、以下は9割方ぼく個人の記憶に基づいて書かれているので、もし事実と異なることを言っているのであれば指摘が欲しい。そんな具合だ。

▼書きたいことが多すぎるので記事を分割することにした。

▼映画館に何度も足を運んで観たくなる映画というのは数年に1本程度あるもので、前回はデンゼル・ワシントンの『イコライザー』が「それ」だったのだが(10月に2作目が公開になる)、「その次」がこのタイトルだったというのは自分でもいささか意外だったというか、そんな感じだ。あまりにギャップがありすぎる。「ひと夏の冒険……少年……ボーイ・ミーツ・ガール……やがて訪れる別れ……残された少年の胸に残ったもの……」こういった映画を素直に楽しめる自分がまだいたのか、そういった類の驚きさえ覚えたほどだ(ところで、かつて作られた伊藤計劃作品のアニメ化の出来があまりに酷すぎ、もうアニメ映画は一切信用しないとまで言い切った自分が映画館に足を運んでアニメの映画を観たわけであって、あれはひとつの傷だったのだなと思い至った。年月の経過は傷を癒やす。実際、あれ以来ぼくは約1年と少しもの間一切アニメを観なかった)。

▼「おねショタ」以外、一切合切何の前知識もない状態で1回目を観て、未読だった原作を読み通し、2回目を観ても、やっぱり気になるのはお姉さんの感情に関わるあれこれだった。というより、原作を読んだ上で臨んだ2回目の方がより一層気になったというべきか。それは、アニメになって生き生きと動き回るようになったお姉さんの立ち振る舞いから誘発される感想には違いないのだけれど(他に適切な言い回しが見つからなかったのだが、映画版のお姉さんの振る舞いはまことに「人間らしい」)、もっと重要な理由があるということに、2回目でようやく気づくことができた。

▼というのも映画版の終盤、1つだけ原作の本文にないセリフが足されていたからだ。お姉さんが最後に「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」と寂しげに言い残すシーン。あれである。原作のお姉さんは(こういう言い方が適切であるかどうかはわからないが)いともあっさりアオヤマ君のもとを去ってゆく。それと比べた場合、映画版で描かれる別離のシーンはまったくもって印象が異なるという他なく、原作を読んだ翌日に2回目を観たぼくはその差分に気づいた瞬間、思わず大声を出しそうになった。無論上映中なので黙っていたが、それにしたって上記のセリフ1つが足されるだけでこうも印象が違うのかと思わざるを得ない、そんな素晴らしいアレンジだったと思う。

▼あのセリフはおそらく「海」の破壊に出立する直前においてお姉さんの口から語られる「私なりに未練でもあったのかね?」のセリフによって張られた伏線を回収しており、ということはつまりお姉さんがジャバウォックを生み出す理由って「そういうこと」なんだと個人的に思うわけだが、作中において唯一語られるお姉さんの本心(=感情)が「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」のセリフ1つだというのは、なかなかどうして強烈だ。もし叶うことなら、アオヤマ君が立派な大人になったその日の姿を、お姉さんは見たかったのだ。何て切実な願いなのだろう。

▼お姉さん側のことなんて作中でほとんど描かれないから想像のしようもない(原作では、どちらかというとそういう類の描かれ方をされていたように思う)、という感想は大いにありえるべきだと思う一方、アオヤマ君を優しくぎゅっと抱き締めながら「君が本当の大人になるところを見ていたかった」と寂しげに言うお姉さんの感情を考えると、そのセリフが放たれる瞬間において描かれていたのは紛れもないお姉さん側の物語だったんじゃないかと、そんな風に思えてならなない。もうすぐ自分はこの世界から消えねばならない。そのことを確信していながら、アオヤマ君に「泣くな」と言いつつ、でも「本当の大人になるところを見ていたかった」とその本心を言葉にしてアオヤマ君へ伝えてみせ、そして「私を見つけて、会いにおいでよ」と最後に結ぶ、そのあたりの機微が実に切ない(アオヤマ君だって、立派な大人になった自分の姿をお姉さんに見せたかったはずなのだ)。

(2018/9/11追記:ぼくはあほ、もしくは抜け作なので、「私はなぜ生まれてきたのだろう」の問いかけが原作通り最後の海辺のカフェのシーンで言われるセリフだったという事実に鑑賞3回目でようやく気づき、それを再確認するため4回目を観、「私はなぜ生まれてきたのだろう」の問いが海辺の街の階段で投げかけられるというのはまったくの記憶違いであることを確認した。申し訳ない。以下、事実に基づき論旨を大幅に削除・修正した)それだけではない。終盤、アオヤマ君がお姉さんとの別れを経験する海辺のカフェのシークエンスは、セリフの前後関係も入れ替えられている。「私も、私の思い出も、みんな作りものだったなんて」と語られるお姉さんのセリフは、原作では別れの間際に言われるセリフであったが、映画版ではその前段、「海辺の街」の階段をゆっくりと昇ってゆくシーンにおいてモノローグめかして挿入される。これもまったく印象が違う。というより本来、「海辺の街」の階段で言われるべきセリフであったのではないかとさえ思えるほど、素晴らしいアレンジだったと個人的に思っている。お姉さんが自分の生家だと認識している家の窓を見上げるカットにおいて、そうした問いかけがオーバーラップするものだから、余計にそうだ。どう見ても常世のものとは思えぬ無人の「故郷」の街並みを歩きながら、お姉さんは自らの出自に関する謎をアオヤマ君へ問いかける。画によってセリフに説得力が生じている点で、あれは本当に良いアレンジだ。

▼というわけで、「本当の大人になるところを見ていたかった」「私を見つけて、会いにおいでよ」というお姉さんがアオヤマ君に最も伝えたかった事柄は、最後の最後、二人の旅路の終着点である「海辺のカフェ」において伝えられる。お姉さんが再びアオヤマ君に会うためには彼に先述の問いを解いて貰う必要がある。それはきっと長い年月を費やさなければ解けない類の難問であるだろうし、もしかしたらアオヤマ君が一生かけても解けないほどの難問であるかもしれない。というより、そういった可能性の方が高いようにも思える。お姉さんにようやく会えるのは、もしかしたらアオヤマ君の孫、あるいは曾孫の世代かもしれない、などと妄想をたくましくすると相当切ない(もっとも、アオヤマ君のモノローグを参照すると、自身にお姉さん以外の女の人と結婚する意思はないようである)。

▼それでもアオヤマ君は(彼のいうところの)「信念」に基づき、お姉さんに再び会うため日々研鑽を重ねるのだ。お姉さんがどれだけ大好きだったか、どれだけもう一度会いたいと願っているか、そんな想いを胸に、彼は「世界の果てに通じている道=ペンギン・ハイウェイ」を全速力で駈け抜けてゆく。おそらくは物語が終わったその後もずっと、彼は「世界の果て」に向かって突き進んでいくだろう。……ぼくはこういう結末に極めて弱い。フィクションには終わりがあるが、フィクションが終わったあともその登場人物たちの人生は続いてゆく。そんな類の結末に滅法弱いという次第だ(それを補強するかのような原作にないオリジナルのラストカットと、エンドロールにおいて流れる宇多田ヒカルの主題歌(書き下ろしらしい)も相俟って余計くるものがある)。大人になったアオヤマ君は果たしてお姉さんと再会することができたのだろうか?(原作に続編がない以上、この問いには明確な答えがない。当たり前の話だが、再会できたか否かの答えが明かされないことによって、この作品の結末はより強力なものになっている)

▼先述の「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」というお姉さんの言葉は、「私を見つけて、会いにおいでよ」という言葉の動機をある種明示したものに他ならず(お姉さんが「会いにおいで」と言う動機をそのセリフ1行によって明示したのは、本当に大胆かつ良いアレンジだとぼくは思う)、その言葉はアオヤマ君の「信念」を、それこそ原作で語られる「信念」よりもずっと強固なものにしたに違いない。「世界の果て」でアオヤマ君との再会を待ち侘びるお姉さんに、アオヤマ君は立派な大人になって会いに行く。そうすることで、ようやくお姉さんの望んでいた願いは叶うのだ。

▼そんなこんなでぼくは、どうしてもお姉さん側の物語に惹かれてしまう。消える間際、いつか立派な大人になったアオヤマ君が自分を見つけて会いにきてくれたら嬉しいなとか、そんなことを考えていたのだとしたら、とか、そんな具合に。

▼お姉さんは立ち振る舞いや表情、その他様々な仕草でもって色んなことを語ってくれる。中盤、ハマモト先生が去って行ったあとの歯科医院入口に佇んでいるところとか、ポケットに手を突っ込んで立ちんぼになりながら、何かの終わりを予期して物思いに耽るかのようなあの表情に、ぼくは彼女の側の物語を垣間見た(おそらく、あのときの表情は海へ向かうくだりにおける「夏休みが終わってしまうね」「どんなに楽しくても、必ず終わりは来ます(※ここのアオヤマ君のセリフのディティールがうろ覚え)」のやり取りと対応している)。

▼少し話は逸れるが、そもそもあの新興住宅地において初めてペンギンが目撃されたタイミングが物語冒頭であったのだとしたら、お姉さんはいつからあそこに「いる」のだろう? というのも謎のひとつだ。いつの間にかいるはずのない人間(の外観をしたもの)が「いる」ことになっていて、当たり前の存在としてあの住宅地の生活に溶け込んでいる、というのがもし仮にお姉さんという存在のあり方だったのだとしたら……とか、色々妄想をたくましくすると面白い。何せ、お姉さんは過去に何度もペンギンを出したことがあるかのような口ぶりで自己の能力の内実を語るが、そもそもペンギンが初めて目撃されたのは物語冒頭の時点なのである。とはいえ、この辺りの大ネタ(特にお姉さん周り)は「スタニスワフ・レムの『ソラリス』を読んでから言え」感が当然ある。『ペンギン・ハイウェイ』の着想元がレムの『ソラリス』であるためだ(読んでから3回目に行こうと思っている、この映画のお陰で十数年間積んでいた本に手をつけることができた。ちなみに積んでいたのは国書刊行会Verの新訳単行本であったが、Kindleでハヤカワ青背版が出ていたためそちらを買い直した)。

▼映画のパンフレットにはアオヤマ君のノート(!!!)が付録としてついている。そこでは「海」がどこか別の場所にも出現する可能性について言及されている。「海」と「お姉さん」と「ペンギン」と「ジャバウォック」がワンセットなのだとしたら、仮に別の場所に「海」が現れた場合、そこにお姉さんもいるのではないだろうか……? などと考えてしまう。『ペンギン・ハイウェイ2(そんなものはない)』がありえるのだとしたら、この筋立てかな……などと脊髄反射的に連想が繋がってしまうのはモノ書きとしての性ではあるものの、しかしそれはちょっと読んでみたいぞ、という気がしなくもない。が、「海」の大枠の謎はアオヤマ君によってあらかた解かれてしまっているので、やっぱり『ペンギン・ハイウェイ2』はないと考える方が筋が通る。何の話だ。

▼子どものアオヤマ君から見たお姉さんと、大人のアオヤマ君(?)から見たお姉さんは全然違って見えるのではないかと思う。子どものアオヤマ君から見たお姉さんはとても興味深くミステリアスで素晴らしい「研究対象」となる存在であるが、大人のアオヤマ君(?)から見たお姉さんは、お茶目で豪快で快活で、知的で俗っぽくもありつつ世慣れているようで、その実子どもっぽい一面も併せ持つ素敵な女性として映るのではないだろうか……? 自分でも何を言っているのかもはや分からないが、そんなふうにちょっと角度を変えて見るとなかなか楽しい。

▼お姉さんの喪失にまつわる記憶はアオヤマ君の今後の人生においてある種の「傷」として残り続けるのではないか、とぼくは思う(だからこの物語を単純に「アオヤマ君の成長譚」と括ってしまうのはどうか、と個人的に思っている。ある種の「傷」は人を成長させるのだとしても、だ)。あんなに大好きだったお姉さんが目の前から消えてなくなってしまうのは、それこそ耐えがたい悲しみに相違ない(でもアオヤマ君は泣かないのだ)。無論、そうした「傷」の痛みとはすなわち、後のアオヤマ君を「世界の果て」まで運んでいってくれる原動力に他ならないのだが、そうしたあれこれを経てお姉さん側のセリフに立ち戻ってゆくと、「私を見つけて、会いにおいでよ」というお姉さんの言葉の意味合いがズシリと重くなってゆく。彼女は決して「私のことを忘れてくれ」とは言わない(自分がいなくなった後の世界をアオヤマ君は生きていく、そのことの辛さをお姉さんが分かっていなかったはずがない。その辺の大したことないフィクションであれば、お姉さんに「私のことは忘れて、今後は自分の人生を生きてくれ」的な、ひどく凡庸なことを言わせたであろう。だがこの作品はそうしない。そこが重要だ(※この辺りの設計の背景として、レムの『ソラリス』があるのは理解している))。むしろ「君ならできる」とばかりに残された謎を解いて欲しいと言い残す。「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」「私を見つけて、会いにおいでよ」とも。お姉さんはアオヤマ君の心に、そうしたある種の爪痕を残した。これらの事実は原作ではそれほど前景化していないものの(原作の別離のシーンは本当にあっさりしている。映画版を観たあと当該シーンを読むと驚くこと請け合いだ)、映画版では強烈に前景化している。もちろん、映画版において足された「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」のセリフが効いていることは疑う余地もない話だ。お姉さんは自分の想い(感情と言い換えてもいい)をはっきりと言葉に残し、アオヤマ君のもとから去っていった。想いは言葉にしなければ伝わらないし、残らないものだ(お姉さんの寝顔を見た瞬間、アオヤマ君の胸中に湧いて出た想いがスケッチに添えられたメモとして残ったように)。だから、お姉さんの残した切実な想いは言葉になってアオヤマ君の記憶に残り続ける。彼の記憶に残るお姉さんの言葉は、お姉さんが「作りもの」だったのかもしれないと自己言及した人生の中で得た、確かな実体ある想いであるとぼくは思う(その実体ある想いを得るに至るまでに彼女が通った道筋は、お姉さん自身の物語に他ならない)。そうした想いを言葉として受け取って、アオヤマ君はその後の人生を生きていく。

▼作中でハマモトさん→アオヤマ君へのLOVEが示唆されていながら(パンフレットに掲載された相関図にはそういった内容の事項が明記されている。まぁ、本編を観れば分かることだ。最後にわざとらしいカットさえ差し挟まれる次第なので、その辺は誰が観ても分かるように設計されている)、ラストシーンに至っても、アオヤマ君は「けれどもぼくはもう相手を決めてしまったので」などと冒頭と全く変わらないことを口走る。だが、上記のお姉さんの言葉を受け取ったのちに語られる「けれどもぼくはもう相手を決めてしまったので」という言葉は、必ず会いに行くという決意を伴ったものに相違なく、冒頭のそれよりもいささか想いの質量を伴ったものに聞こえてしまう。そういうわけだから、この物語はアオヤマ君が「世界の果て」を目指す強烈な動機(=「信念」)を得る物語ではあるけれど、それは「成長譚」などと安く括られて良いようなものだろうか……? というのはあると思う。「これはアオヤマ君にとっての「成長譚」だ」という感想のみを抱いた方がもしいたのだとしたら、どうかお姉さんの気持ちを汲んでやってはくれまいか。アオヤマ君が最後に語る「信念」は、そうしたお姉さんの気持ちと表裏一体のものに違いないので……。

▼やっぱり最後にお姉さんがアオヤマ君に伝えた彼女自身の想いはあまりに切実すぎるとぼくは思う。ラストシーンののち、じくっと胸が疼くような心地を覚えるのは、それが理由だ。「結構ウェットだなぁこの話」というのが、ぼくにとっての当面の結論(繰り返すが、ウェットな物語をぼくは好む)。

▼書きたい感想はこれの倍以上あるのだが、疲れたので今回はここまで。気が向いたら(というか、『ソラリス』読了後に3回目を観たら)また②を書くかもしれない。何しろ、この映画の「おねショタ」的側面についてまだ全然言及できていない(この映画、『ソラリス』が着想元のSFだ何だというのは一旦脇に置いておくとして、めちゃくちゃウェットかつLoveい「おねショタ」以外の何だっていうんだ?)。

▼感想の続きは以下にて。

【レポ】欅坂46の全国握手会in名古屋に行ってきた話(中編)

 

 アイドルは生きた人間だ。何を当たり前のことを、と思う向きもあるかもしれないが、しかしアイドルを推すということはすなわち自分の人生と直接の関わりを持たない人間を推す行為に他ならないのであるからして、アイドルは生きた人間であるという認識はアイドルを推す上で殊更重要な観点になってくるのではないかとぼくは思う。生きた人間には然るべき敬意を払う必要があるからだ。

 

 当たり前の話にすぎないが、彼女たちアイドルにはそれぞれの人生があり、家族があり、友人がある。喜ぶときだってあれば、悲しむときだってあるだろう。そういった意味でいえば、彼女たちの在り方は、人間であるという一点を以てぼくらの在り方と全く同じものであるといえる。アイドルはアニメキャラでもなければ歌って喋る玩具でもなければ、ましてや株券でもない。ぼくらと同じく人権を享有し、物理的身体を伴う人間に他ならないのだから、アイドルを推す行為はすなわち生きた人間を推す行為に相違ないとぼくは思う。

 

 よくよく考えてみれば、はじめに握手会へ行こうと思ったのは、彼女たちが人間であるという事実を確かめに行きたいというのが動機だった。血が通った人間であるアイドルへ直に触れ、直に話しかけることで、ぼくはそうした自分の考えが間違っていないことを確かめたかったのかもしれないと、握手会が終わったいまになってはじめて思う。結論からいえば、平手さんも、上村さんも、渡辺梨加さんも、その他のメンバーの方々も、当たり前かもしれないがみな等しくぼくらと同じ血の通った人間だった。そんな事実の確認を通じてぼくは思った。彼女たちアイドルは人間だ。だからぼくは、敬意を持って彼女たちアイドルを推そう、と。

 

 さておき、名古屋全握のことである。前回のレポにおいて、ぼくは午前中のミニライブを観覧したときの様子を書き綴った。この記事はその続きなので、できればここから先の内容は下記の記事を読んだあとで目を通して頂きたい。

 

 

 正午である。ミニライブの会場から規制退場に従いぞろぞろと出口に向かうおたくたちの群れに押し流され、ぼくは人々がひしめくエントランスホールに佇んでいた。ツイッターのタイムラインを確認すると、会場には数名の知人がいることが見て取れた。事前に名古屋全握へ行くと明言していた知人たちだ。朝待機列で見かけた暴力ちゃんのミニライブ観覧席はEブロックだったらしい。つまり最後列のブロックだ。初全握のぼくがAブロックだったのは相当の幸運に違いなく、次の5thシングルの全握では今度はぼくがEブロックに当たることもあり得るわけであって、まぁこればっかりは運だよなぁ、という気持ちになり、次回からはいつ後列ブロックになっても良いよう、必ずオペラグラスを準備して全握ミニライブに臨もうと決意した次第である。

 

 握手会の開始は十三時三〇分からであり、開場は十二時四十五分である。軽く昼食を摂ったぼくは、隣の展示場で行われているリフォームフェアに訪れた家族連れや老夫婦が、半ばギョッとした面持ちでアイドルの握手会に訪れたおたくたちの群れを見遣るさま(めちゃめちゃ良い)を眺めつつ、朝と同じように握手会待機列が形成された駐車場へ出て、降雨に耐えるおたくたちの行列と一体になった。つまり朝苦労して入ったミニライブ会場の出口から、ぼくは自ら進んで外へと出た。これが大きな過ちであったことに気づくのはそれより数時間後のことであるが、このときのぼくは握手会参加の段取りに関してあまりに無知であり、その不手際を責めるのはあまりに酷だ。だから責めないで欲しい。

 

 さて、またしても立ちんぼのまま待機が続く。雨はまだ降り続いており、列は朝のときと同じく遅々として進まない。十三時三〇分。握手会開始の時間だ。列の進みが徐々に早まり出すと同時に、雨の勢いも緩やかに弱まっていった。会場は午前中のミニライブと同じく第二展示棟を使うとのこと。入口ではセキュリティチェックの係員が入場者の手荷物を確認し、金属探知機で凶器となり得る物品の有無を調べている。またペットボトルに入っている飲料を所持していた場合は、その場で入場者が中身をひと口だけ飲んでみせることが要求される。要は、過酸化水素とアセトンの混合物質に硫酸を加えた爆薬をペットボトル飲料に偽装させるTATP爆弾などを警戒したテロリズム対策である。

 

 ぼくはクラブによく行くいわゆるパリピ、もうちょっとオーセンティックな言い方であればクラバーなのでこの手のセキュリティチェックには慣れている。その日のぼくはageHaの屈強なセキュリティ並みの厳しさを覚悟していた。ゆえに手荷物の中身は可能な限りシンプルにし、ポケットのなかにある財布も携帯も鍵もライターも煙草もすべて取り出した状態で待機していた。が、鞄の中身をチラ見され、金属探知機で腹と背中をそれぞれ〇・五秒程度なでられただけで「はいOKでーす」の声とともに握手会会場のなかへ入ることを許可された。しつこいボディチェック程度は覚悟していたので肩透かしもいいところである。

 

 パリピもしくはクラバーである自分から見れば甘々のセキュリティチェックではあったものの、ないよりはましなのは確かであり、セキュリティチェックをやると事前告示しておくことでの危険物の持ち込みを抑止する効果もあるのだろうと思ったものの、本気のテロリズムに対する抑止に対して、この程度のチェックはほぼ効果を発揮しないだろうという良くない思考がぼんやりと浮かんだ(こうした握手会のセキュリティチェックがなぜいまのようになったのか、という歴史は重々承知しているつもりだ)。

 

 まぁ、セキュリティチェックを厳しくしたところで入場待機列を捌く速度が低下する問題が別途発生するのは目に見えているので、あくまで両者の塩梅を考慮した上でのチェック体制なのだろうな、というところでぼくの思考は停止した。なぜならばそのときのぼくはアイドルと握手すべく即座に行動を起こさなければならず、余計な思考に構っている暇などなかったからだ。

 

 握手会の待機列はぜんぶで十五あった。第一レーンから第十五レーンまで、欅坂46けやき坂46のアイドルがたち二人一組になって次々と押し寄せるファンの列を捌いていくというシステムだ。各レーンに対するアイドルたちの振り分けは下記の通りとなる。

 

【全15レーン】

●第1レーン:長濱ねる・東村芽依

●第2レーン:渡邉理佐高本彩

●第3レーン:平手友梨奈・佐々木久美

●第4レーン:守屋茜佐々木美玲

●第5レーン:志田愛佳・柿崎芽実

●第6レーン:石森虹花・加藤史帆

●第7レーン:長沢菜々香・米谷奈々未

●第8レーン:小林由依・尾関梨香

●第9レーン:織田奈那・小池美波

●第10レーン:鈴本美愉齋藤冬優花

●第11レーン:佐藤詩織・齊藤京子

●第12レーン:上村莉菜・潮紗理菜

●第13レーン:土生瑞穂・原田葵

●第14レーン:菅井友香・井口眞緒

●第15レーン:渡辺梨加・高瀬愛奈

 

今泉佑唯は欠席となります。

※影山優佳は学業の為欠席となります。

 

 

 

 ぼくはミニライブで握手券を一枚使ったため、残る握手券は三枚であり、従って一レーンにつき消費する握手券が一枚であることから手持ちの握手券で並ぶことのできるレーンは合計三つまでだ。手持ちの握手券を全て使い切って並ぶのに疲れたらそのまま帰るもよし。はたまた別のレーンにも行きたい、もしくは同じレーンをもう何周かしたいと思えば会場物販の初回限定版シングルを買い、その中身に同梱されている握手券を引っ剥がして使えば良い。会場内で握手券の買い足しが出来るのだからまことに良い商売である。大人に気持ちよく金を使わせるコンテンツほど良いものはないとぼくは思う。

 

 初手に並ぶレーンははじめから決めていた。第三レーン。平手友梨奈さんと佐々木久美さんのレーンである。無論、かの平手友梨奈さんとの謁見を果たすのが目的である。ぼくは第三レーンの待機列へ向かった。そのときはじめて、ぼくは自分自身が極度に緊張していることに思い至った。平手友梨奈さんとぼくが握手? マジで? いいのか、そんなことが許されてしまって……。わからん……なんも……。

 

 第三レーン最後尾へ到着する。すさまじい人、人、人である。やはり世間における欅坂46の代名詞・平手友梨奈さんともなればここまでの人気なのかとぼくははじめて実感する。ざっと眺めただけでも一〇〇人、一五〇人、いやそれ以上の人間が並んでいるように見えた。だが、詳しい知人によれば関東開催の全握はこの比ではないらしい。名古屋と京都(つまり地方)の全握は平手友梨奈さんであっても二〇〜三〇分程度並べば握手できる、とのことであって、金のある大人のおたくは関東開催ではなく名古屋もしくは京都での開催を狙うとのことだ。地方開催は人が少ないから、というのがその理由なので、転勤で大阪に住まうぼくはこの国における東京一極集中の構図に想いを馳せる。アイドルは世の中ににおける何かしらの在り方を映す鏡だとぼくは思うが、アイドルはこの国の在り方さえも映すというのか。そんな想いに囚われているうちに、列はみるみるうちに動いている。そのペースは異常なほど早い。そうこうしているうちにあっという間にぼくの並ぶ位置は平手友梨奈さんがいるであろうブースの入口へと近づいていった。

 

 全握の平手友梨奈さんについて、とりわけ「剥がし」が早いということは知っていた。知らない人向けに説明すると、「剥がし」とはアイドルと握手しているおたくを引っ剥がして握手待ち列の回転を促す係員のことである。制限時間を過ぎると「お時間です」と言っておたくの肩を叩いたり、ときには両肩をガシッと掴んで文字通り物理的に引き剥がしたりするのがその役割だ。まるで受刑者を面会者から引き剥がす刑務官のような存在である。アイドルのいるフェンスの向こうの世界が娑婆で、ぼくらがいるこちら側の世界が塀の向こうの世界なのだとしたら、一体ぼくらは何の罪で収監されているのだろう。そんなよくわからないことを考えていると、平手友梨奈さんとの握手待ち列の進み具合が急加速した。

 

 何が何だかわからないうちに平手友梨奈さんがいるブースの入口が急速に接近してくる。握手は衝立に仕切られたブースの中で行われる。ブース入口には空港の手荷物検査場じみた手荷物の預け先があり、手ぶらになったおたくは握手券を渡した係員に手のひらのチェックを受け、ブースのなかへと入場する。ブース内ではアイドル二名がフェンスの向こう側から愛想を振りまき、おたくと手を握り合い、一秒前後のコミュニケーションを交わし合い、そしておたくはといえば「剥がし」の係員に促されるようにしてブースの出口へ押し出され、預けた手荷物を受け取ってレーンから出る。

 

 そのときのぼくは異常な光景を目の当たりにしていた。台から吐き出されるパチンコ玉のごとき勢いで、平手友梨奈さんのいるブースの出口から夥しい量の人間が次から次へと出てくるからだ。レーン出口へ向かう見知らぬおたくが、「早ぇ!」と半笑いで叫んでいた。「剥がし」があまりに早いという意味だろう。早い早いとは聞いていたが、ブース出口から吐き出されてくる人間の勢いとペースは常軌を逸して余りある。いくら何でも回転が早すぎはしないか? とぼくは思った。これは絶対に、何かがある。

 

 声が出ないのだそうだ。誰が、というと平手友梨奈さんがである。その場でインターネットを駆使し、急いで理由を調べたためわかった事実だが、要するにツイッターのツイート検索欄に「平手」とだけ打ってそれらしい記事や言及を探ったにすぎない。その日の平手友梨奈さんは喉を痛め、声が出せないとのことだった。レーン入口にその旨が書かれた張り紙があったそうだが、ぼくの記憶にはなかった。平手友梨奈さんとの握手を前に極度の緊張状態にあったため、その張り紙が視界に入らなかったのだろうと思う。

 

 喉を痛め、声が出なくても、それでも握手会を休まないのは何かすごいな、とぼくは打ち震えた。得体の知れない何か凄まじい執念のようなものを感じ、あのときのぼくは一瞬だけ恐怖したのを覚えている。それが平手友梨奈さんの「休まない」という行動についてのものなのか、そうしたコンディションの彼女を「休ませない」運営に対するものなのか、いまになってもわからない。まぁ、誰がそう決めてどういう仕組みで本決定に至ったのか、外部からまるでわからないため考えたところで詮のない話ではあるが、少なくともあのときのぼくは一瞬だけ恐怖した。何かぼくの知らない、得体の知れないルールに基づいてこの全握という場は動いている。少なくともそれだけは直観した。そしてその直観は、あの日全握を通じて覚えたひとつの感想へと結実してゆくのだが、その話はまた最後の方で。

 

 手荷物を預け、係員に握手券を一枚渡す。手のひらのチェックを受けて、衝立に仕切られたブース内へと足を踏み入れる。マジで? あの平手友梨奈さんと握手すんの? え……マジで……? ぼくは緊張を通り越して動揺していた。心臓がバクバクと大きな音を立てているのがわかる。ぼくは平手友梨奈さんのことを心の底からリスペクトしていた。アイドルとして好き、というのとは少し異なる文脈だ。そう、ぼくは物書きの端くれとして平手友梨奈さんのことを本当に尊敬していたのだ。もはや崇拝していたといってもいい。パフォーマンスにおける「表現者」としての平手友梨奈さんの凄まじさを知っているからこそ、これから彼女と握手するという行為に対するわけのわからなさみたいなものが先に立った。まるで意味がわからない。ぼくなんかが? 握手を? 本当に?

 

 そしてブース内でいよいよ握手である。眼前一メートル以内の距離に、けやき坂46の佐々木久美さんが立っていた。目線が男性のぼくとそれほどあまり変わらない。背の高い綺麗な方だな、と思った。

 

 そうだった、全握は二人で一レーンだから、平手友梨奈さんだけでなく、ひらがなけやきの佐々木久美さんも第三レーンのブースのなかに立っているのだ、ということは無論事前にわかっていたことであって、佐々木久美さんにかける言葉ははじめから決めていた。道中の新幹線で直近の佐々木久美さんのブログを読みまくり、話すネタを探していたためだ。裏を返せば、わざわざネタを探さなければならないほど佐々木久美さんのことを知らなかったということであり、ひどく情けない。漢字欅ばかりじゃなくて、ひらがなけやきの方も今後に備えてちゃんと真摯にやっていこうな。心の中で、ぼくはそう堅く決意したものだった。

 

 佐々木久美さんがぼくの方に視線を向けた。握手をするためである。ぼくは彼女に手を握られた。佐々木久美さんの瞳がじっとぼくの目を見据えている。そうだ、声をかけなければならない。

「全国ツアーとタップダンス頑張ってくださいね!」

「うん!!! 頑張るね!!!」

 すぐ目の前から発せられる佐々木久美さんの声音は、想像を遙かに上回るエネルギッシュさだった。おそらくは第三レーンにやってきたおたくたちの大半から言われたであろうベタもベタも大ベタの一言に対し、溢れんばかりの笑顔を浮かべ、触れた手からも伝わってくるようなエネルギーで「うん!!! 頑張るね!!!」と元気に答える彼女は何者なのか。きっと、アイドルに選ばれるような人はその裡に内包しているエネルギーの総量が人よりも多いに違いない。そんなことを思っていると、おたくの流れに押し出されるようにしてぼくは平手友梨奈さんの眼前へ放り出される。手を軽く握られた。あの平手友梨奈さんに。

 

 思ったよりも背丈小さいな。わかってはいたけれど。あと、目、めっちゃ大きい。佇まいが綺麗だ。そこに立っているだけで美しいってすごいな。そんなことを思った。血の通った手は当然のごとく温かい。当たり前だ。彼女だってぼくらと同じ人間なのだ。

「あ、あの、平手さんの表現が……」

 ぼくは意を決して伝えたかった想いをぶちまける。と、そこで、

「お時間です」

 剥がしの係員に肩を掴まれる。平手友梨奈さんに声をかけた瞬間から剥がされるまで、体感にして一秒未満の出来事だった。

「……すごく好きです! 応援してます!」

 残りの台詞を急ぎ早口でまくし立てながら、ぼくはブースからまたしても押し出されるように吐き出された。手荷物を受取りレーンから出る。そして思った。

 

 何だったんだ? 今のは、と。

 

 間近で見たはずの平手友梨奈さんの顔貌がぼくの記憶のなかでぼやけていた。彼女と握手をした実感はない。軽く手を握られて、その手が握りしめられる前に剥がしの声がかかる。よってぼくはちゃんと彼女に自分の想いを伝えられた実感はなかったし、正直にいえば、握手をしたどころか彼女の目の前をスッと通過した程度の実感しかない。一秒未満の剥がし(体感時間)で、かつ彼女自身が自分からコミュニケーションを取れないコンディションにある以上、まぁそんなもんだろう、くらいにぼくは思った。ちゃんとしたコミュニケーションを取りたいなら個握しかないのだろうなぁ。

 

 ぼくはレーンを移動することにした。おたくでひしめく会場を歩く途上、記憶のなかでぼやけた平手友梨奈さんの顔貌を何度もなぞり直し、失敗し、ひいては佐々木久美さんの顔貌もはっきりとしなかった。はじめて見た生の平手友梨奈さんに関しては「思ったよりも背小さいな。わかってはいたけれど。あと、目、大きい。佇まいが綺麗」といった抽象的な印象しかなく、はじめて見た生の佐々木久美さんに関しては「背の高い綺麗な方だな。あとすごいエネルギッシュ」といった、やはり抽象的な印象しか残っていなかった。

 

 理由はすぐにわかった。あまりに握手待ちの回転が早いため、おたくはほぼ歩きながらパッ、パッとアイドル二人と素早く握手をしなければならないためだ。どういうことかというと、一瞬で剥がされる全握のシステムにおいては目の前のアイドルの顔貌を視認するのに動体視力を使う。つまり充分な時間立ち止まった状態でアイドルの顔を見る余裕がない。そういうことである。

 

 まずいなぁ、と思った。ぼくは動く「画」を記憶するのがとても苦手である。具体的にいうと、観た映画のワンショットを脳内で描き直すことができない。従って観たばかりの映画を視覚的に語ることができず、繰り返し観ないと「画」の感想を言うことができない。そういうわけだから、素早く動きながらアイドルの顔貌を視認し、記憶することはぼくにとってきわめて難しい作業となる。

 

 大丈夫なのか。そんなんでやれんのか。そんな一抹の不安を抱きながら、ぼくは真っ直ぐに第十二レーンへと向かった。上村莉菜さんと潮紗理菜さんのレーンである。二番目に並ぶのはここだと最初から決めていた。なぜかというと上村莉菜さんがとても素敵だからである。説明おわり。おぜりなは平和であり、愛であり、祈りである。従っておぜりなの構成要素たる上村莉菜さんは最高である。あるレーンに並ぶにあたって、果たしてそれ以上の理由が必要だろうか?

 

 ぼくは第十二レーンの最後尾に辿り着いた。平手友梨奈さんのいた第三レーンに比べればさすがに並んでいる人が少ない。列の進みは早くないが、まぁ待ち時間は概ね一〇分程度といったところだろう。と、そこでぼくには周りを見られる程度の心の余裕が生まれていた。徐々に場に慣れてきたということだ。

 

 さて、レーンの待機列に並んでいるおたくだが、男女とりまぜて若い人が多い。朝の待機列でもそうだった。高校生以下と見受けられる子がそれなりにいる。立ちんぼになって並びながら、開いた古文の参考書に赤色の半透明の下敷きを当てている受験生とおぼしき男の子を見かけたときには思わず頬が緩んだ。きっと真面目な子なのだろう。それでも彼は受験勉強の合間に握手会に赴くほどに欅ちゃんのことが好きなのだ。そんな彼に愛される欅ちゃんの在り方を思い、とても敬虔な気持ちになった。

 

 レーンの待機列がじりじりと進んでゆく。不思議なほど緊張はなくなっていた。人生ではじめてのアイドルとの握手を経て、アイドルと握手するための心理的ハードルが下がった結果なのだろうと思った。何事も経験である。もう少し待てば上村莉菜さんとお話しができる。緊張はほとんどなく、むしろそのときのぼくは上村莉菜さんとお話しすることを楽しみにしていたほどだった。

 

 上村莉菜さんの好きなところを挙げればきりがない。千葉のブハブハにはじまりポンコツなところと他メンバーのブログから垣間見える優しいお人柄とか、運動音痴だけどパフォーマンスが一生懸命全力なところとか、年下のメンバーにババァ呼ばわりされしまいには志田愛佳さんに「ドタキャンリナババァ」呼ばわりされるところとか、あとライブのバックステージ映像とかで彼女が画面を横切ると「あっ! 美少女がいる!」的な感じになって大変脳に良い。と、まぁ当然アイドルは生きた人間なのでことほど左様に情報量が多い。

 

 そんなわけで、上村莉菜さんと握手およびお話しするにあたり、ぼくは喋ることを事前に決めておく必要があった。彼女を取り巻く情報のなかから、剥がされるまでの一秒前後の時間(想定)で伝達可能な「伝えたいこと」を探すのだ、と握手会前夜のぼくは考えたのだ。そして当日。既にネタは決まっていた。あとは実際に彼女の目の前で自分の伝えたいことを話すだけだ。

 

 係員に握手券を一枚渡してブースに入る。まずはじめ。潮紗理菜さんが目の前にいた。彼女と握手をし、ぼくは言った。

Zepp Nambaの公演と、あとタップダンス頑張ってください!」

 さっきのネタの使い回しである。最悪だ。今後はもっとひらがなけやきを頑張っていきたい。だがそんなワックなファンであるぼくに対し、潮紗理菜さんは輝くような笑顔でこう言ってみせたものだった。

「わ~!!! ありがと~!!! タップダンス頑張るね!!! タン、タン、タタン」

 その場で元気に足踏みをしながら潮紗理菜さんは「えへへー」と笑う。天使か。ぼくは一瞬で潮紗理菜さん(かわいい)のことが大好きになってしまった。

 

 そして、潮紗理菜さんに「ばいばい」と手を振られると、ぼくは上村莉菜さんの前に放り出された。ぼくは眼前にある上村莉菜さんの顔貌を直視する。小さい!!!!!! 身長一五二・五センチ、『ちびーず』の片割れであることは伊達ではない!!! そしてお顔の造形がめちゃめちゃ繊細だ!!! さすがアイドルになる方は繊細なつくりをされている……。そんなことを思いつつ、ぼくは上村莉菜さんと握手をした。そのときの様子は下記の通りだ。

 

 

 あまりに最高裁判所だ、助けてほしい、とぼくは思った。あまりにも体験として強烈すぎる。上村莉菜さんに手を振られ、レーンの出口をフラフラと歩きながら、ぼくは「大変な思いをしてしまった……」という感想ひとつを持て余し、あれ? そういえば剥がし緩かったな……上村莉菜さんとの最低限のコミュニケーションが成立していたぞ? ということにようやく気づいた。その理由はのちほど識者の知人により明らかにされることになる。

 

  ちなみに上村莉菜さんが描かれていたブログの棒人間とはこちらである。めっちゃ良い。漢字の成り立ちっぽくて味があり、良くないですか?

 

 

 それにしても、潮紗理菜さんはエンジェルだったし、上村莉菜さんは力の抜けた自然体な感じでやり取りをされており、またお人柄が垣間見える心のこもった素敵なご対応で非常によかった。これが、アイドルか……握手会にくる皆に対してあんな感じでひとつひとつ心を込めて丁寧に対応されているとしたら、もはやリスペクトの念しかありえない。ぼくはそう思い、それにしても上村莉菜さんは素敵だったな……と五億回ほど心のなかで繰り返し唱え、あとで物販に行き上村莉菜さんの推しタオルを買おうと思った。ライブなどに行くことがあれば、客席から高々と上村莉菜さんの推しタオルを掲げるのだ。欅坂46におけるぼくの推しメンが決まった瞬間である。

 

 そうした上村莉菜さんへの反応は自分でも意外だった。なぜなら、ぼくの推しメンはあくまで平手友梨奈さんだとぼく自身が思っていたからであって、上村莉菜さんはあくまで「素敵なお人だなー」と思っているメンバーのひとりにすぎないと思っていたからであった。ツイッターのアイドル用鍵アカウントのタイムラインでは、知人が「はい、ベレイちゃん(※ぼくのあだ名、ベリカ・ベリサ・ベレイというわけである。ベレイって誰だ?)上村さん落ちです」という旨のことをツイートしていた。そうか、これが「落ちる」というやつか。既に理解しかない。助けてくれ。救命阿!!!!!!

 

 まぁよくよく考えてみれば平手友梨奈さんはぼくにとって箱推し観点での推しに他ならず、彼女に対する強いリスペクトの念は、欅ちゃんのパフォーマンスをセンターとして引っ張る「表現者」としての彼女の在り方にある。アイドルをアイドルとして推すという観点から見れば、まぁアリといえばアリなのだろうが、もうちょっと違う観点から欅ちゃんの推しメンを決めたいなと思っていたのは事実だった。そこに上手いこと上村莉菜さんがピタリと嵌まった。何というか、そんな感じである。

 

 そして、ぼくの手元には握手券があと一枚だけ残されていた。時刻は十五時を少し回ったところだった。握手会終了は十八時である。入場してからは既に一時間ちかくが経過している。高速剥がし高回転レーンだったとはいえ、平手友梨奈さんのレーンに並んだ時間が長すぎた。さて、ここからどう動くか、と思考をグリグリと巡らせる。何だこれ。アイドルの握手会めっちゃ楽しいな……。ぼくの脳からはよくわからない類の汁がドバドバ分泌されはじめていた。瞬間、「キャバクラにハマる類の男の気持ちが刺激される可能性があるイベント内容であり、従ってキャバクラ気分できてる来場者もまぁまぁの割合でいるんだろうな、グロい……」というあまりにも最悪の感想が脳裡をよぎり、せっかく上村莉菜さんの素敵なお人柄に触れて暖かい気持ちになったというのにマジで最悪だと思い、死にたくなったし、実際死のうと思った。

 

 あまりにも長くなりすぎたので後編に続きます。

 

 

渡辺零 拝

【レポ】欅坂46の全国握手会in名古屋に行ってきた話(前編)

 

 アイドルの握手会に行こうと思った。これまでの人生、アイドルにハマったことなんてただの一度もなかったぼくが、あろうことかめちゃめちゃアイドルにハマったためだ。欅坂46に「転ぶ」のは一瞬だった。忘れもしない。二〇一七年二月二十五日。何の偶然か、AbemaTVで放映されたワンマンライブを見たぼくは、この2ヶ月半を経てすっかり欅坂46のおたくと化してしまったわけであって、そんなぼくが欅坂46の新譜を2枚(最低限)買えば参加できる全国握手会に参加しない道理などそもそもなかった。

 

 欅坂46の全国握手会。略して「全握」である。なお握手会には「全握」と「個握」が存在する。違いについては各自好きにググって欲しい。ぼくが行ったのは「全握」の方だ。会場は名古屋。ポートメッセなごやである。ぼくは関西在住なので本当は京都パルスプラザ開催の全握(京都全握)に行きたいところではあったのだが、あいにく京都全握の当日は早稲田の茶箱でDJをすることになっていたため、まぁ仕方ないといった具合で、5月の名古屋開催での参加と相成った。

 

 と、まぁそんなわけで欅坂46の4thシングル『不協和音』初回版に同梱されている握手券を合計4枚握りしめて、二〇一七年五月十三日、ぼくは名古屋の全国握手会へと向かったのである。

 

 朝八時半。吹きつける風雨に曝された金城埠頭は肌寒く、ぼくは薄着で握手会に来たことを少しばかり後悔した。ポートメッセなごや金城埠頭の尖端に位置するその大規模展示施設は、正式名称を名古屋市国際展示場という。総敷地面積約二十万平方メートル、総展示面積は展示棟三つを合わせて三万三九四六平方メートルを数える施設である。

 

 あおなみ線の終着駅からぞろぞろと歩くおたくっぽい人間どもの集団についてゆき、施設のエントランスホールに足を踏み入れると、閉ざされた会場からミニライブのリハの音が漏れ聞こえ、身体の奥底でテンションが高まった。そのまま係員の誘導に従い、ぼくはエントランスを突っ切り外へ出る。すると、レゴランド・ジャパンをすぐ隣に臨む駐車場にあって、傘を差した大量のおたくが葛折れ状の列になって並んでいた(余談だが、エスピオナージ馬鹿はレゴランドと聞くとSIS(MI6)を想起する。ロンドンはヴォクソールに屹立するかの本部ビルは、その形状から「レゴランド」と呼ばれ、馬鹿にされているためだ)。

 

 折からの雨足はさらに強くなる気配を見せ、そうした驟雨に直立不動で耐え続けるおたくたちの集団は、さながら八甲田山死の彷徨といった具合に思えてしかたなかった。彼、彼女らは皆アイドルに会わんとすべく、降りしきる雨風に必死で耐え続けているのだ。ぼくにはおたくたちの気持ちがよくわかった。きっとアイドルを好きになる前のぼくだったらその気持ちを理解することはできなかったであろう。

 

 そしてぼくはおたくたちの列と一体になった。おたくとの合一である。時刻は午前九時。午前中のプログラムは4thシングル『不協和音』収録曲六曲のミニライブである。開場は午前九時三〇分。ミニライブ開演は午前十一時きっかりであるが、入場列は遅々として進まなかった。雨は強くなる一方で、前日に手入れした純白のスニーカーが跳ねた泥で黒々と汚れていくのを悲しい気分で見下ろしていると、次第に列の動きが速くなってゆくのがわかった。そしてふと視線を上げ、レゴランド・ジャパンの傍を通る高架に視線を送ると、『最終警告です天皇陛下』の巨大極太ゴシック体を荷台に書きつけた播磨屋のトラックが三台連なって高速道路を驀進してゆく様子が見て取れた。なぜだかぼくは「ああ、これは吉兆に違いない」という無根拠な想いひとつを抱き、またおたくたちからなる巡礼者の列と一体になる。雨足が少し弱くなった。

 会場入口では、係員がおたくどもから握手券一枚をむしり取り、ミニライブ観覧券一枚と交換する業務を行っていた。大規模展示場であるホール内の観覧席はオールスタンディングであり、観覧場所はA~Eのブロックで区切られている。Aが最前列、Eが最後列だ。早く並んだからといってAブロックに当たるわけではもちろんなく、受け取る観覧券のブロックはランダムであり、従ってどのブロックに当たるかは運でしかない。

 

 ぼくが当たったのはA-3ブロックだった。つまり最前列である。人生初全握にして、引いたのは大当たりも大当たりといって差し支えない。競馬でいえば中穴の軸馬に二桁人気馬がひっついてきて馬連万馬券、くらいのラッキー感だ(ぼくの体感による感想なのできっと個人差はあるだろう)。ぼくは心のなかでそっと播磨屋のトラックに感謝を捧げた。

 

 はやる気持ちもそこそこに向かったのはA-3ブロックの区画ではなく、トイレだった。時刻は午前十時四十分。待機列に並び始めたのは午前九時だ。そう、一時間四十分にもおよぶ待機列での忍耐は、ぼくの尿意に著しい危機をもたらしていたのだ。そのときのぼくはといえばとにかくおしっこがしたかったし、そのときの尿意は閾値を超え、きわめてシリアスな領域へと達しつつあった。

 

 トイレの列は本当に遅々として進まない。ぼくは気が狂いそうになりながら、中高年男性の尿のキレの悪さについて想いを馳せ続けていた。アイドルのことなど一ミリも考えず、ミニライブスタート二十分前のぼくは中高年男性の排泄について考えていたのだ。いまから考えればどうかしているにも程があるが、尿意は人間から冷静な思考を奪って余りある。あまり責めないでほしい。

 

 まだまだ列は進まない。トイレ入り口まであと四メートルのところで、「みなさーん、盛り上がる準備はできてますかー!」的なアイドルのアナウンスが場内に響き渡り、おたくたちが一斉に沸いた。欅坂46のキャプテン・菅井友香様のお声だとぼくの脳は瞬時に断じ、尿意は一瞬だけ収まったかのように思えたが、思考の冷静な部分が「ミニライブ開演五分前の段階でトイレ待機列のこの位置ということは、おしっこをしていて開演に間に合わない可能性はおそらく六〇%といったところだろう。ことは運の領域に突入してきた。君は欅ちゃんの生パフォーマンスを観るのはこれが人生初であろう? おしっこのしたさのために開演の瞬間を見逃すつもりか? 体験の一回性が損なわれるぞ?」ともの凄い勢いでぼく自身を詰めはじめた。

 

 ここでぼくには二つ選択肢があった。ひとつはトイレ待機列に並び続け、A-3ブロックへの開演間際滑り込みを狙うこと。もうひとつはトイレを諦め今すぐA-3ブロックに向かうこと。前者の場合尿意の問題は解決されるが、開演の瞬間を見逃す可能性が高い。人生初の生欅ちゃんパフォーマンスの体験をおしっこのために損なうのはあまりに惜しい。また後者の場合尿意の問題は解決できないが、開演の瞬間は確実に観られる。

 

 さて、どうする、と二秒ほど黙考し、ぼくはトイレに並び続けることを選んだ。今日はツイていると思ったからだ。何より播磨屋のおかきトラックがついている。あれは吉兆に相違ない。おしっこしたさのあまり、あのときのぼくは狂っていたのかもしれなかった。

 

 結論からいえば、おしっこは間に合ったし、ちゃんと石けんで手を洗い、開演の瞬間にも間に合った。暗転しはじめた通路を何食わぬ顔で歩き、欅ちゃんのオーバーチュアが爆音で鳴り始めた頃にはA-3ブロックへ滑り込むことに成功した。排泄待機列に並んだ代償としてA-3ブロックの中では最後方だが、密集するおたくたちのはざまにあってブロック最後列にぽっかりと隙間が空いており、そこに運良く入り込めた。両手に持ったペンライトをちょこまかと振れる程度のスペースは確保できる。おまけに前方にそこまで背の高いおたくがおらず、間近のステージをそこそこ良好に視認できる。尿意にも勝ち、ミニライブにも勝ったとぼくは思った。憂国おかきトラック様々である。

 

 オーバーチュアが終わり、ステージが始まった。以下はステージ上において繰り広げられた欅ちゃんたちのパフォーマンスについての感想である。

 

●一曲目:不協和音

 欅ちゃんのパフォーマンスはきわめて苛烈だ。これは大げさな表現でも何でもない。あの日ステージにいた欅ちゃんは総計二〇の殺気からなるひとつの巨大な修羅そのものだったし、とりわけセンター平手友梨奈の在りようは、ヒトの形を成した激烈な殺気そのもの以外ではありえなかった。

 

 髪を振り乱し、眼前をきつく睨み据え、掴まれた腕を振り払い、陣形を成して行軍する。それもアイドルらしからぬ蟹股で。それらは確かにぼくがテレビやMVで観てきた欅ちゃんたちではあったけれど、最前のブロックから観ると全然印象が違った。画面を隔てていない分、彼女たちの殺気が観客に向けて直に刺さるからだ。

 

 ぼくは格闘技が好きだ。とりわけ会場での生観戦をぼくは好む。テレビで観るのとは全く違う感触があるためだ。考えてもみて欲しい。観客が居並ぶ大ホールにおいて、自分と同じ空間にいる人間同士がいきなり自分の眼前で殺気を向け合い、本気の殴り合いをおっぱじめるのだ。敢えて言いたい。格闘技の生観戦は、リングの上を中心とした、殺気の波及を楽しむ娯楽だ。ある空間で発生した苛烈な殺気は空間全体へに波及し、やがて観客である自分自身へ突き刺さる。ぼくはリングサイド席でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが鼻面を殴られたときの「べちゃっ(パキッ)」という音を聞いたことがある。打撃のインパクトで鼻骨がひずむ瞬間における小さな音。テレビの中継には乗りづらいごく小さな音だ。そんな小さな音からぼくが感じ取ったのは「(対戦相手のセルゲイ・ハリトーノフは)ノゲイラを殺す気で殴っている」ということだった。リング上から放たれる殺気の質量に、あのときのぼくは身震いひとつを覚えたものだった。

 

 この記事は下書きなしで書かれているため大いに話が逸れたが、人生において、躍動する人間が放つ殺気を浴びる機会はそうそうない。だがあの日のミニライブにはそうした機会が確かにあった。要するに、ぼくは格闘技の生観戦に等しい体験を欅ちゃんのパフォーマンスから得ていたのだ。それはもうテレビで観るのとは全然違う。殺気が直に突き刺さる。その凄まじさに打ち震え、何だかよくわからない感情になったのだった。

 

 あと不協和音の織田奈那さん超カッケェ!!!! 午後の握手会でご本人に伝えよ……という気持ちが生まれた。

 

●二曲目:微笑みが悲しい

 てち&ねる曲。一周年ライブに行った知人から「てちねるが絡み合う曲だよ」ということは聴いていたし、覚悟はしていたつもりだったが、実物を眼前にしたら記憶が飛んだ。なぜかというと想像の八億倍濃厚に絡み合っていたからだ。何か、こう、ステージの袖で二人が絡み合ったところあたりからの記憶がない。あと何か至近距離で向かい合って見つめ合いながらおでこをこっつんこさせてた記憶がうっすらとある。あまりにも美少女すぎる美少女が自分の眼前で絡み合い出すと人間の記憶って飛ぶものなのだなと思った。助けてくれ……。あと、てち&ねるに関する文脈は、まぁ何か興味ある人は各自勝手に調べること。

 

●三曲目:割れたスマホ

 MVがいかがわしい強火の曲。なのだが、実際にパフォーマンスを観ると「何かエロい……」よりも先に「かっこいい……」がくることがわかり、脳に良かった。これはぼくの持論なのだが、極度に美人な女性がエロい雰囲気でキメ顔してると異常にかっこよくなるというのがあって、割れたスマホはそれを地でいっていた。あと、やっぱりぺーちゃんのあの手つきは生で見るとあまりにアレがアレで感情がめちゃめちゃになり、脳が半分くらい溶けて知のうが劣化してしまった。助けてくれ……。

 あとコール入れるの楽しかった(あの曲でコールを入れるのが不作法なのかどうなのかわわからん……赤ちゃんなので……)。

 

●四曲目:僕たちは付き合ってる

 スッと齊藤京子さんに視線が向いて、そのまま齊藤京子さんのことを目で追っていたら目の前にいた強火のおたくが「きょんこぉぉぉぉぉ↑↑↑↑ーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!! きょんこぉぉぉぉぉ↑↑↑↑ーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」と馬鹿でかい声量で語尾を上げつつ一生叫び続けていたので何か気が散ってしまい殺害した。振り付けがめっちゃかわいい。

 

●五曲目:エキセントリック

 歌詞が絶妙にダサいんだかカッコイイんだかよくわからないけどとにかくトラックがカッコイイ、ぼくは大好き、みたいな曲で、MVが存在せず、かつ一周年ライブでのパフォーマンスを観た人間が「メンバーみんな靴脱いで頭上でブン回してた」だの「曲の途中で全員髪を解く」だの想像できるんだかできないんだかわからないことを一斉に言うのでもとより気になっていた曲だ。従ってこの日のミニライブの目的の大半はこの曲にあったといっても過言ではない。ライブじゃなきゃどんなパフォーマンスなのかわからないので。

 

 で、実際観てみたらまーーーーーーカッコイイこと。あっ!? あの歌詞をこうパフォーマンスに落とし込むんだ!? 説得力しかない!!!! みたいな驚きがあり、とっても良かった。あと、パフォーマンス観た人にしかわからない話として、全員シンメトリックな隊形になって諸手を挙げつつゆら~~~ゆら~~~って揺れるところがあり、何だか上手く言葉にできないものの、あそこでセンターに立っていた平手さんの表情(目)を見て、そのあまりの修羅っぷりに本気で背筋がゾゾッときてしまった。「本物」をこの目で見た気がする。ヒトとしての在り方として彼女に敵う気が一マイクロミリたりとも存在しない。当たり前の話だけれど。

 

 あと髪括ってしんなりシャキシャキ動く土生ちゃんがマーーーーーージで格好良かった。土生ちゃんに憧れる女子中学生にはやく戻りたい、と思った(殺さないでください)。

 

●六曲目:W-KEYAKIZAKAの詩

 欅ちゃんのアンセム。ただこの頃には係員が規制退場に備えてブロック後方の柵を圧縮しはじめたせいで(出口を塞ぐため)、おかげでぼくの周囲にはペンライトを振るスペースさえ一ミリも残されておらず、ひどく悲しい想いをした。

 

 ミニライブおわり。

 

 さて、ミニライブが終わり午後からはついに握手会だ。長くなりすぎたので続きは後編。

 

渡辺零 拝