パリの場外馬券売り場に行ってきた話

  前回の凱旋門賞観戦記が途轍もなく好評だった。だが、まだ書いていないことが山ほどある。ホテルの真ん前で花売りのアラブ系の男とアフリカ系の男が怒鳴り合いながら殴り合い寸前の喧嘩していたこととか、燃え落ちたノートルダム大聖堂の改修工事現場が凄かったこととか、何らかの政治集会の現場を通り過ぎて日本のそれと何もかもノリが違うことに愕然としたこととか、警視庁襲撃事件直後のシテ島は警官が物凄い数いてやっぱり雰囲気が異様だったこととか、慢性化したパリ市内の交通渋滞が日本では考えられないレベルにあるためタクシーで地獄を見たこととか、白バイのサイレン音が『ボーン・アイデンティティ』で聞いたものと寸分違わず同じでメチャクチャに興奮したこととか——そんな話では今回なく、パリ市内の場外馬券売り場で馬券を打ったときの話をさせて欲しい。「凱旋門賞でタコ負けしてなお馬券を買ったの? 馬鹿では?」と言われれば「そうです……」としか答えられないのであるが、ともかくパリの場外馬券売り場の話である。

 日本のWINSと同じく(負けて帰る客が大多数である賭博施設の名が「WINS」とはいったいどういう了見だろうか? 舐めるのもいい加減にしろといつも思う)パリの街中にも場外馬券売り場が存在する。PMU(Pari Mutuel Urbain)というそうだ。場外馬券売り場とは、とりもなおさず競馬場の外にあってレースの馬券を購入可能な場所のことで、ゆえにパリ市内のPMUではパリジャンたちが高額配当の馬券を求めに日々ゾロゾロと集まり「勝った」だの「負けた」だのをやっているというわけだ。

 観光最終日、ポンピドゥー・センターへ寄ったときのことだった。マルセル・デュシャンの『泉』を見て「やっぱりただの小便器やんけ」とか「現代アートはオッパイと乳首が描かれがちであるな」とかしょうもないことを考えたぼくは国立近代美術館を後にし、「この店では英語は通じんからフランス語を喋りな」的な態度を頑なにとり続けるカフェのウェイターへ「感じ悪っ!」などと思ったりしつつ(何も注文せずにぼくは帰った。滞在中唯一遭遇した、ステレオタイプそのものといえる嫌味なパリジャンである)、ふと交差点のそばに怪しげな一角があることを発見したのである。施設の入口へ掲げられた看板には『PMU』と書いてある。

 PMU……おお、これが噂に聞いていたフランスの場外馬券売り場か……。ぼくはルーヴル美術館のクソ長い入場列へ並ぶ予定を即座に破棄し、急遽馬券を打つことにしたのであった。生のモナリザを拝む機会と異国の地で馬券を打つ機会。どちらを取るかとなれば即座に後者を選ぶのが、我々競馬好きという人種である。「ひとり旅で良かった」とぼくは思った。もしパリ旅行を楽しみたい同行者がいた場合、「モナリザより馬」なんて口走った日には張り倒されても文句は言えないであろう(その昔、6日間ばかりの英国旅行で無理言ってチェルトナム競馬場行きに丸1日を費やした際、ついでに別日でサンダウン競馬場も行きたいと言ったら張り倒されたことがある)。

 PMUの内部に入る。広さはさほどではない。フロアは1Fのみで、床面積は日本の一般的なコンビニと大差なかった。フロアの奥の方では、オートゥイユ競馬場で行われている障害競馬の中継がサムソン製の馬鹿でかい液晶テレビに映し出されている。馬券購入用の券売機については、ロンシャン競馬場にあったのと同じタッチパネル式のものが置かれていた。また払戻しの有人窓口内部では、この世の終わりみたいな不機嫌ヅラを晒したおばちゃんが、「何もかも面白くない」といった風情のドス黒い雰囲気を放ちながら新聞などを読んでいた。

 日本のWINSと同じノリでPMUに入ったぼくだが、しかし何というか雰囲気が日本のそれとは少々異なることにすぐさま気づいた。誤解を恐れずにいえば、ちょっと客層の雰囲気がよろしくないのだ。凱旋門賞ウィークエンドの一般席にいたような着飾った人びととはまるで雰囲気が異なる(当たり前だ、凱旋門賞ウィークエンドのチケットは高額である)。少し滞在しただけでわかることだが、ヨーロッパは社会階層ごとの断絶が日本では考えられないレベルで存在する。パリもそうだ。そして平日昼間のPMUにいた人びとだが、まず身なりがあんまりよろしくない(バックパッカーみたいな格好で毎日街をうろついていたぼくが言えたことではないが……)。挙措から漂う彼らのガラも、ちょっとだけ悪いように感じる。

 この辺は現場でビリビリと感じた皮膚感覚によるものとしかいいようがなく、万人が納得できるような理屈での説明が難しい(身なりやガラの良し悪しで人を判別するのかと言われれば返す言葉もないわけであるが、しかし日本から出たことのないひとがそうしたことを思ったのだとしたら、パリのような街へいちど行ってみろと言いたくなるのも事実である)。なので見たままの事実のみを列挙する。まずヨレヨレの服を纏った高齢の白人やアジア系の男たちが大勢いる。日本のWINSで見かける馬券オヤジのようなもんである。一方サムソン製の馬鹿でかい液晶テレビの下では、アフリカ系や北アフリカ系とおぼしき男たちが「たむろする」としか形容しようのないかたちでスペースの一角を占有し、明らかにフランス語でない言語も交え何ごとかを大声で話している。たむろする男たちについては、彼らの兄貴分的な雰囲気を醸し出す身長一九〇センチ超のアフリカ系の男(ガタイの良い)が何かひとこと言うたび、他の男たちが「ガーーーーーッハッハッハッハッ!!!」「ダーーーーーーーッハッハッハッハッハ!!!」と死ぬほどデカい声で爆笑している。迫力しかない。

 ともあれ内部の雰囲気については、普通のパリ旅行者が物見遊山のついでに立ち寄るような感じでないことは確かだった。はっきり言おう。ガラが悪い。とはいえ、新宿や渋谷、後楽園や浅草のWINSだって「差せ蛯名ァ!!!」だの「何やってんだヨシトミ馬鹿ヤロォ!!!」だの凄まじい胴間声を上げる客というのはよく見かけるもので、場外馬券売り場とはすなわち鉄火場である。ガラなど悪くて当たり前じゃないかとぼくは思った。

 例えば浅草のWINSなんて『ここで小便をしないでください』という張り紙がフロア内になされていたことで有名だ。更に震災で改築する前の新宿WINS(改築前の新宿WINSは凄かった。カオスという言葉の意味を、ぼくはあの場所で教育された)では明らかにスジ者然とした男が高額払戻窓口で受け取った札束をセカンドバッグへ無造作に突っ込んでいるところも目撃した。パリの場外馬券売り場だって、同程度とはいわずとも間違いなく鉄火場だろう。客層と雰囲気にちょっとビビっておいてなんだが、ある程度想定済みの雰囲気の悪さではあった。「競馬とはスポーツである」「競馬とは程々に嗜む大人の遊びである」などと取り繕ったところで馬券が存在する以上、競馬とは純然たる賭博に他ならず、賭博に群がる者たちが皆お上品であるわけがない。場外馬券売り場は、そんなことを我々に思い起こさせてくれる。

 で、その日はパリ郊外のオートゥイユ競馬場にて障害競馬が行われていた。障害競馬というのはサラブレッドがコース上に設置されたいくつものハードルをピョンピョン飛び越えながらゴールを目指す競馬である。ヨーロッパの障害競馬といえば、コースが鬼畜すぎて騎手がドコドコ落馬しまくる英国のグランドナショナルなどが有名だ。なおこれは完全に余談だが、YouTubeグランドナショナルのジョッキーカメラ映像がアップロードされている。飛び越えるハードルのアホみたいな高さだとか、隣を走っていた騎手がいつのまにか落馬して画面からフレームアウトする緊張感とか(進撃の巨人かよ)、凄まじい迫力なので競馬を知らなくても一見の価値ありである。


JOCKEY CAM: Many Clouds wins the 2015 Crabbie's Grand National

 熱心な海外競馬ウォッチャーとは言い難いぼくのことである。ただでさえ情報の乏しい海外競馬、それも平地競馬(普通の競馬のことね)とジャンルの異なる障害競馬ともなれば、もう情報など「無」以外の何ものでもない。ぼくは開き直ることにした。「1番がナンバーワン……馬番1!!!」とか「何レースか3番人気〜5番人気の単勝を全部買えば、そのうち当たって利益が出るだろ」とか死ぬほど適当なポリシーで馬券を買い続ける。前者なんか浦安鉄筋家族に出てくる難波湾そのものである。そして馬券はというと……当たらない。びっくりするほど当たらない。もはやユーロ札を1レースごとに紙屑へ変換し続ける作業である。

 ヨーロッパの障害競馬は扉つきのゲートを使わないのでスタートがきわめて適当だ。いわゆるバリア式のゲート(芝コースにロープを張り渡すことでスタートラインを仕切り、発走時間になるとロープが跳ね上げられ馬たちが一斉にスタートする。日本ではもう見ることのなくなった原始的な方式だ)だから、発馬後の位置取りが結果のほぼすべてを決定づけるといっても過言ではない。見ていると、差し追い込みはこれっぽっちも決まらない。行った行った(逃げ馬同士で上位独占すること)で決まるレースばっかりだから、勝ち馬を予想しているんだか逃げるのがどの馬かを予想しているんだか次第に分からなくなってくる。まぁ、障害競馬なんだから当たり前である。

 別のモニタでは他場の中継だろうか? レース結果のVTRであろうか? どちらかはわからないが繋駕速歩競走(けいがそくほきょうそう)の映像が流れている。そう、驚くべきことにフランスでは繋駕速歩競走がまだまだ現役で行われているのだ。ちなみに日本のJRAでは1968年を最後に繋駕速歩競走は一切開催されていない。だがフランスでは2019年現在も人気であるようだ。そういえばロンシャンの凱旋門賞ウィークエンドでも、場内の他場中継では繋駕速歩競走の映像が流れていて、中継モニタの下にえらい人だかりが出来ていたのだった。フランスはスウェーデンなどと並び繋駕速歩競走が盛んな国である。文化圏が違う。そんなことを思った。

 繋駕速歩競走はトロッターやペーサー(両者は馬自身の歩法で区分けされる)と呼ばれるスタンダードサラブレッドの馬に、人が乗った繋駕車なる二輪馬車を引かせることで競走をさせる。その見た目たるやまるで古代ローマの戦車競走、あるいはベン・ハーである。なおスタンダードサラブレッドは平地競馬や障害競馬のサラブレッドとは品種が異なる馬である。闘争心と身体能力に優れるサラブレッドと比べ、気性が大人しく操縦性に優れる品種なのだそうだ。また牽引された二輪馬車へ大股おっぴろげた格好で乗り込む騎手は「ジョッキー」ではなく「ドライバー」と呼称される。更にここが最も肝心なことだが、繋駕速歩競走はあくまで「速歩競走」であるため、駆け足(ダッシュ)で馬を走らせることは反則である。だから裁決委員から「ん? あの馬走ってない? 違法走法では」と見なされれば即座に失格となってしまう。基準は実に厳格であると聞く。しかし駆け足でなく速歩で競馬を行うなど、八百長の温床になってしまうのではないか……? 特に繋駕速歩競走へ明るくないぼくは、そんな疑問を抱いたのであった。でもまぁ、古代の戦車競走に起源を持ち、軍馬育成とともに盛んとなった繋駕速歩競走がいまだに人びとに好まれているというのは、何とも実にヨーロッパらしい。

 で、オートゥイユの馬券はすべて外れた。20ユーロから30ユーロくらい負けたと思う。手もとに残ったのは例のお釣り引換レシート、あるいは馬券に換えられるバウチャー1枚、たったの1ユーロ分のみである。全レースが終わってしまったのだから買えるレースはもはやなく、ぼくは泣きながら不機嫌おばちゃんのいる払戻窓口へ向かっていく。お釣り1ユーロを受け取りに行くためである。しかし、おばちゃんは窓口の中にいなかった。仕事をサボタージュしていたのである。

「そんなことある??????」と、ぼくはおばちゃんが戻ってくるのを待った。パリ旅行中、日本では到底許されるレベルではない雑な仕事、あるいは愛想のない仕事をする人びとをそれなりに見てきたが(おばちゃんもそのひとりである)、とはいえこの手の話は日本社会が労働者へ求める仕事の基準が病的なまでに高すぎるという話でしかないように思え、郷に入っては何とやらというわけで、異国の地において街中の労働者へ日本並みの行き届いたサービスを期待するのは馬鹿のやることである(ロンドンのターミナル駅では、「X号車ってここ?」と扉の開閉をしていた駅係員へ聞いたところ「それを教えるのは私の仕事ではない」とばかりに「I don't know」と思い切りガンをつけられたことがあった)。

 おばちゃんが戻ってきた。ぼくはお釣り1ユーロを引き替えるためのレシートをスッと出した。おばちゃんがレシートを一瞥し、ついでぼくの顔に一瞥をくれる。マジで愛想のかけらもありはしない。おばちゃんがレシートを機械に通した。出力されたお釣り1ユーロ(コイン1枚)をおばちゃんは囲碁でも差すかのような具合に「バチーーーーーーーーーン!!!!!」とぼくの前に叩きつけた。麻雀であればマナー違反と誹(そし)られても言い訳できないレベルの「バチーーーーーーーーーン!!!!!」である。おばちゃんからは「メルシー」の一言もありはしない。それどころかフランスにおいてはサービスを受けた場合は客の側も「メルシー」と感謝の意を表すのが作法である(余談だがフランス人はことあるごとに「メルシー」と言う。日本人感覚でいえば「ありがとう」より「ドーモ」の方が訳語として適切なのではないかとぼくは思う)。だからぼくは死ぬほど無愛想なおばちゃんに「メルシー」と言ってPMUを辞去したのである。馬券でボロ負けしたあとにカフェで飲んだエスプレッソの味が、ひどく苦かったことはいうまでもない。

(おわり)

【ネタバレ無し】相生あおいの無駄毛のこと

 相生あおいはきっと無駄毛の処理が甘いと思う。きっと甘いと思うのだ。何の話かというと『空の青さを知る人よ』という新作アニメ映画の話である。これから考え得る限り最低な映画評を展開するので、そういう品性下劣な記事が読みたくないという清廉潔白な人びとにあっては、いますぐブラウザの戻るボタンを押すか、もしくはブラウザタブを閉じるか、PCやスマッホのディスプレイを叩き割るか、いずれかを実行してほしい。

 というわけで『空の青さを知る人よ』の話である。以下の記事は、今回のような「ミジンコのクソにも劣る感想記事*1」を読みたくない人びとが前段落末尾の文言を読んで100%ブラウザを閉じている前提で話すので、そのつもりで読んで欲しい。また「記事がクソほどに下劣である」というクレームは一切受け付けるつもりがないので、そのこともご了承をいただきたい。ついでにリアルで交流がある人は、変わらず友だちでいてくれれば幸いだ。

  さてこの『空の青さを知る人よ』という映画は、姉である市役所職員の女(31歳)と歳の離れた高校2年生の妹(17歳)をめぐる比較的ややこしい間柄を描いた物語である。映画本編を通じて徹頭徹尾、主題のフォーカスは姉妹の関係性に据えられており、男も出てきてそれなりに恋愛っぽい話が展開されるわけであるが、しかし姉妹の関係性にまつわるエピソードがあまりに強烈であるため、男女の色恋をめぐる話は刺身のツマ——というのは言い過ぎにしても、鉄火丼に敷かれた紫蘇の葉程度の存在感になっている。そのことについては終盤とても分かりやすく描かれたシーンがあるのだが、大きなネタバレになるのでここでは伏せる。事前のプロモーションでは男と女の四角関係恋愛話かと思わせておいて、蓋を開けたら姉と妹の濃密な関係性の話が展開されて、さりとて脚本上そこに四角関係の恋愛がないと姉と妹の話が成立しないし、ラストシーンのキメも機能しない——そんな塩梅の構造である。

 とまぁそんな映画ではありつつ、ぼくが話したいのは姉妹の関係性が結構観客の胸を抉ってくる類のものだったとか、そんな話ではもちろんない。上映中近くに座っていたチャンネーがことあるごとに鼻ズビズビさせながら泣いてて鬱陶しかったとか、そんな話でももちろんない。端々でちょっと(無論悪い意味での)邦画っぽさが出ていたところや「観客よさぁ泣け」みたいな趣が滲み出ていたところとか、そんな話でもないのである。

 ぼくは相生あおいの無駄毛の話がしたいのだ。切実に、かつ真摯にそう思う。これは祈りに似た気持ちといっても差し支えない。

 相生あおい——ところどころ姉譲りの顔立ちをしているくせして無愛想で愛嬌がなく、向こうっ気ばかり強くてムスッとしており、目力があるくせにやさぐれていて陰があるし、イキッているし、カチンときたらすぐキレるし、ガサツゆえ制服のスカートを穿いているときの座り方は死ぬほど雑で、眉毛は手入れをしないからこの世の終末(ハルマゲドン)のごとくボーボーであり、髪の毛なんかは一本一本が太そうだ。更に学校では高2だというのに友だちはひとりもなく、バンドへの加入を断り続ければ男子から「ブス」と強めの口調で陰口を言われる。そんな彼女が、例えば冬のあいだ懇切丁寧に自らの無駄毛を処理し続けるだろうか? 答えは「否」以外ありえないのは明白である。論理的帰結として明白なこと自体が既にして明白である、と言い換えてもよいだろう。

 そんな無駄毛ベーシスト・ガールである相生あおいが奏でる音は、うねるような低音がズシッと腹に底に響き渡り、何だかドロッとした情念のようなものさえ音の内側に孕んでいて、こういってはなんだがブルージーだ。ドロッとうねるブルージーなベース……そう、無駄毛なき者が弾ける音では到底ない。ゆえに彼女はきっと脂足だ。靴を履いて出歩けば、夏であろうが冬であろうが季節を問わず靴下の足裏部分がベチョベチョに汚れるタイプに相違ない。断言するが脱いだ靴下は絶対にくさい。それくらい相生あおいのベースはドロッとしている。ついでにいえば、どこへ感情の矛先が飛んでゆくかわからない思春期特有というにはいささか過剰ともいえる内面も、曰くドロッとした情念に溢れていてウェットだ。少なくともドライではない。そう、彼女の内面はウェットなのだ。少しサバサバした外面向けの口調に騙されてはならない。あのウェットさがないと姉妹の物語が成り立たないから、彼女がウェットであることは作劇上きわめて重要である。だからきっと、心のウェットさが丹田を通じたはたらきか何かでリンパを経由し体表面まで滲み出るから、東洋医学の観点からして脇汗だってウェットに決まっている。脇毛の尖端が湿り気でちょっとまとまってしまうタイプに違いない。またしても不潔な話で申し訳ないが、耳垢は絶対に飴状だ。これらは確信を持っていえることだ。

 更に、この指摘は「エジソンはえらいひと」レベルで月並みにすぎる事柄であるため絶対に言うまいと思っていたことだが、おそらく彼女の眉毛と陰毛の太さ・濃さはかなり密接に連動している。これは科学的に明らかな事実であり、異論を差し挟むやつはいまだに天動説や地球平面説を支持するような輩なのでどうしようもない。あの性格で陰毛を懇切丁寧に剪定するとはとても思えないから、その生育ぶりたるやほぼ手つかずの原生林——いわばユネスコ自然遺産のようなものである。そうした自然遺産たる原生林の生育範囲が既に蟻の門渡りを越境しつつあることなど、当たり前すぎて欠伸が出るほどの事実であることも付記しておく。

 以上の相生あおいをめぐる事柄は何によって規定されるか——そう、遺伝である。となれば31歳の姉(市役所職員)も似たような体質にあることは確定的に明らかであり、疑いを差し挟む余地は1マイクロミリたりとも存在しない。だが(残念なことに)姉はそういうところに気を回す性質(たち)だから、自らに生い茂る原生林の剪定は比較的丹念だろうといわざるを得ない。しかし、本編において見逃してはならないシーンが存在する。職場の接待から帰宅した姉が、少々しんどそうに「今日はお風呂入らずに寝ちゃおっかな」という内容の発言をするシーンである。きわめて所帯じみた味のある台詞であるが、ここでぼくは姉に存在する無駄毛の可能性について、一縷の希望を見出すことになったのだ。

「ひょっとしたら、姉も冬は無駄毛の処理をサボタージュ*2するのではないか……?」

 まさしく天啓のような閃きがあり、ぼくは敬虔な心持ちに包まれた。近くの席で泣くチャンネーといっしょに上映中声を上げてオイオイ泣くことも辞さないほどの精神状態である。妹同様とまではいかないが、姉のユネスコ自然遺産も無為な伐採から守られていたのだ。

 とまぁ、かような具合に無駄毛姉妹のちょっと一筋縄ではいかないような関係性がガッツリ描かれるのがこの映画である。無駄毛姉妹の恋愛対象として、何とも陰毛の薄そうな男が2名程度出てくるが、そちらはそちらで映画に不可欠な登場人物でありつつ、しかし最もウェイトが置かれるのは無駄毛姉妹であるので、ウェットな姉妹愛(しかも歳が10歳以上離れている)とか好きなひとは劇場に足を運んではいかがだろうか*3。無駄毛姉妹の無駄毛っぷりは、このぼくが保証する。

 しかしまぁ、無駄毛生やして友だちも作らず、教師に「東京」とだけ書いた進路調査票を叩きつけ、なおも頑なにバンドを組まず突っ張り続ける相生あおいの生き様たるやかなりシブい。映画冒頭、渋面作ってカナル式のイヤホンを嵌めて夕日の差す屋外へと座り込み、通りに背を向け、ブインブインと景気よくギブソンサンダーバードを掻き鳴らす様は見ていてかなりシビれるシーンだ。凡百のどうしようもない映画なら、ベースソロの長回しから主題歌のイントロをバーーーーーーーンッ!!! とかぶせてスタッフクレジットがドーーーーーーーンッ!!! みたいな品のない演出を行ったであろうが、この映画は優れているからそんなことを決してしない。ここでぼくの中におけるこの映画への信頼度が5000くらいになった。なおこれの内訳としては、①高2女子なのに無駄毛生やして友だちも作らず突っ張るのは社会の規範に縛られない行いであり、滅茶苦茶にカッコ良いから(加点:4750)、②カナル式イヤホンによる周囲の雑音のシャットダウンとベースソロの長回しを、コントロールされた演出としてじっくり丁寧にやったから(加点:250)である。

 相生あおいの無駄毛JKぶりをまざまざと見せつけられた出来事がある。2019年10月23日時点において、彼女のファンアートで「相生あおいだ」と思える絵が1枚たりとも存在しないのである。何というか、どのイラストで描かれた彼女も無駄毛が一切なさそうなのだ。そのとき、そもそも公式のキャラデが奇跡的な塩梅で成立しているのだと、凄まじいことに気づいてしまった。ムスッとしすぎていても駄目、キリッとさせすぎていても駄目、眉毛太くすりゃいいわけじゃない、何がしかの「ややこしさ」や「無形の情念」を湛えた顔でなければ彼女でない——といったキャラデであるようにぼくは思った。このキャラを、本編で表情コロコロ変えさせながらアニメとして動かしていたのか……? それは凄まじく高度な綱渡りといってもよい所業だったのではないか……? ぼくはにわかに戦慄した。いまのところ、無駄毛が生えてそうな彼女は本編と公式アートにしか存在しない。

 なお余談ではあるが、脇役として出ていた相生あおいの同級生女子については無駄毛が一切なさそうだったので、特段語ることが存在しない。

(おわり)

*1:すなわちインターネット上においてありふれたゴミ、カス、クソ、サーバーの記憶領域の無駄遣いのことである。

*2:シュワルツェネッガー主演の映画ではもちろんない。

*3:急に真面目な話をして済まないが、この映画について「百合?」と聞かれればその回答ははっきりと「No」であると言っておこう。この映画で描かれるのは姉妹愛ではあるが、少なくとも百合ではない。姉妹愛はその領域まで踏み込むことは決してない。理由はネタバレになるので一切を伏す。

パリまで凱旋門賞を観に行った話

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 パリまで凱旋門賞を観に行った。渡航費だが往復航空券とホテル代(4泊5日)、そして凱旋門賞ウィークエンドの2日間通しチケットで概ね27万円程度かかっている。高ぇ!!! しかも物価の高いパリで外食をしまくったのだから実際にはもっとかかっていると思われる。郊外の治安がとりわけ悪いパリのこと、安全を金で買うという考えのもと安宿を選ぶという選択肢はなくホテル代は一切ケチれないので、エールフランスの直行便(しかも高額な深夜便)ではなくトランジット有りの格安航空券にすればよかったと少しだけ後悔した。でも死ぬまでに一度はエールフランスの長距離便に乗りたかったし、まぁいいか。

 日本からヨーロッパまでの長距離フライトが好きである。何しろ座席へ缶詰になる時間がとてつもなく長い。メルカトル図法上、グイッと北へ大きく回る航路も好きである。ロシアの国土の馬鹿デカさを肌で感じることができるし、場合によっては北極圏さえ通過する。羽田or成田を離陸後、北朝鮮領空を避け東北沖からウラジオストクめがけて大きく旋回するときなど最高の気分になる。

 さて、今回の往路は羽田発CDG行きのエールフランスに搭乗した。23時ちかくに東京を発つ深夜便である。20時過ぎに羽田空港国際線ターミナルへ到着し、人も比較的まばらな出発ロビーでチェックインを済ませ、出国手続きを済ませる過程は何だか非日常的でわくわくした。日本発のフライトで海外のキャリアを利用すると、たとえエコノミーであってもチェックインが超速で済む(ことが多い)のでえらい優越感に襲われる。JALANAのエコノミークラスのチェックイン待ち列など地獄のような行列である。そうした人々を横目にさっさと出国手続きに向かえるのは最高だった。

 しかしまぁ、エールフランスのチェックインカウンターの簡素さったらなかったように思う。もっといえばチェックインカウンターですらなかった。いってみればバゲージドロップカウンターである。事前のオンラインチェックインがあり、それを済ませた上で空港の自動発券機を使って自分でバゲージタグを印刷して巻き付け、カウンターではスーツケースをポイッとドロップするだけである(羽田のバゲージドロップは有人であったが、CDGでは何とほぼ無人であった)。まるでLCCだ。合理主義もここまでくると感心する。というか、いまどきの航空会社ってこんな感じなのだろうか。旅慣れているわけではないのでよくわからない。有識者がいたら教えてほしい。

 出発前は制限エリアのカードラウンジを思う存分使い倒した。自分のような低級市民でもクレジットカードさえ持っていればラウンジを使えるというのは大変素晴らしい制度であるように思う。しかも夜中とあってそれなりに空きがあり、大変使い勝手がよかった。有料ではあるがシャワーさえ使えるので最高だ。ちなみに成田にあるJALのファーストクラスラウンジでは、カウンターにいる寿司職人たちが客の目の前で新鮮なスシを握ってくれるらしい。ブルジョワジーたる乗客に向けた、まさに贅を尽くしたサービスである。世界観がニンジャスレイヤーと紙一重だ。ここ日本において所得に応じた階級差というのはえてして覆い隠されがちであるが、空港や飛行機においてはファースト/ビジネス/プレエコ/エコノミーといった具合に、そうした階級差が顕わになるというのが面白い。金を持っている者と持たざる者は、チェックインの待ち列も違えば通されるラウンジも異なり、搭乗順も異なるし、座席の広さや提供されるサービスの質、飛行機から降ろされる順番も異なるのである。ちなみに優先搭乗に関しては海外の空港に行くと扱いの差を露骨に感じることができて素晴らしい。エコノミーの乗客なんかは搭乗ブロックごとに並ばされて、係員から「Open your passport!!!」とクソデカい声で怒鳴り散らされることになる。こうした瞬間などたまらなくゾクゾクする。ちなみにエアラインの世界においては近年ファーストクラスを廃止する方向へ向かっているというのがトレンドらしい。我々低級市民たるエコノミーの民(たみ)にとっては「ふーんそうなんだ」という程度の話ではあるのだが。

 さておき、エールフランスのパリ行き深夜便(エコノミークラス)は満席であった。エコノミーで満席というのは最悪である。12時間あまりのフライトとなれば尚更だ。座席で缶詰というのが好きな性質(たち)であるとはいえ、キツいことには変わりない(まぁそうしたキツさを含めて座席で缶詰が好き、という多少ややこしい話ではあるのだが)。エールフランスは30時間前からのオンラインチェックインでのみ座席指定が可能であるが、しかし事前に金さえ払えばオンラインチェックイン以前のタイミングにおいて好きな座席が指定可能である。イグジット・ロウ席や二人掛け席、キャビン前方の席、通路側席、窓側席は人気であり、早くからこうした座席は埋まってゆく。つまりどういうことかというと、長距離国際線において最も不人気な席=真ん中の席に座りたくなければ金を払うしかない、というわけである。というわけで、ぼく自身も金を払って前方通路側席を確保した。座席指定においてはだいたい追加で三千円程度かかったように記憶している。高ぇ!!!

 ちなみに、の話であるが、今回乗った機材は往路復路ともにボーイング777-300ERである。長距離路線においてはスタンダードといってよい機材であるが、今回その座席配分を見て仰天した。というのも、キャビンに配された座席の大半がビジネスクラスだったからである。エコノミークラスなどは全体の三分の一程度、キャビン後方にあっておまけ程度にくっついているのみである。国際長距離線においてエコノミーの客は金にならん、というのは仄聞(そくぶん)していた話ではあったのだが、これまでとはと思った次第である。

 と、ここまで読んでくれた人には何となくバレていることとは思うが、あまり公言したことはないもののぼく自身それなりの飛行機好きである(反面、自動車と鉄道には全くといっていいほど興味がない、単なる移動手段くらいにしか思っていないほどである)。何を隠そう、その昔マイクロソフトフライトシムでセスナ機を有視界飛行やVOR航法でブンブン飛ばしてた人間である。あと最近は搭乗レビュー系YouTuberの動画を良く見ている。おのださんとか、スーツ君とか(スーツ君がエコノミー症候群防止用体操の機内コンテンツを視聴しながらファーストクラスの食事に舌鼓を打つ回はギャグとして大変高度であり、全動画中いちばんの傑作である。ちなみに東京から札幌までスネ夫の真似をすべく飛行機で味噌バターラーメンを食べに行く回も絶品だ。とんでもなく鋭い作品批評が、不意打ちのように飛び出してくるからである)。

 そして今回、せっかくエールフランスに乗ったのだからというわけで、試したいことがひとつあった。事前予約にて注文可能な有料アップグレードミールである。かの美食大国フランスのフラッグキャリアであるエールフランスは、金を払えばエコノミーの民(たみ)であっても美味いフレンチにありつくことが可能なのだ。これは選択するメニューにもよるが、だいたい追加で二千円〜三千円程度かかったように記憶している。高ぇ!!! この有料アップグレードミール、往路便では「トラディション」なる仏国伝統料理のメニューを選択した。そしてこれが死ぬほど美味かった(なお復路便で選んだフォションプロデュースのミールはイマイチであった……)。無花果添えのフォアグラ、うま味の暴力みてぇなミチミチの肉に、付け合わせの芋と温菜、そしてチーズ。これにアペリティフシャンパーニュなどを合わせればもう無敵である。調子に乗って白ワインの小瓶と食後酒まで開けてしまった。なおその後、乗客たちがグースカ眠るなかキャビン最後方の便所でひとりゲーゲー嘔吐しまくってしまったことはいうまでもない。ぼくは元々酒が弱く、更に飛行機だとヘパリーゼやミラグレーンを服用していたとしても100パーセント悪酔いする。高度3万6000フィートの高みで吐くゲロはほんのりと未消化のフォアグラの風味がして、「さすが美食の国の伝統料理! ゲロまでおいしい!」などと馬鹿なことを考えてしまったことを書き添えておく。

 地獄のすし詰め缶詰状態たる機内においては、①悪酔いしてうなされながら大汗をかいて眠る(最悪)、②Kindle端末を用いて大量の漫画をバカみたいに読み耽る(気持ち悪くて集中できない)、の二択で過ごしていた。十数時間におよぶ長距離便の機内においてKindle端末に入った未読漫画や単行本の新刊を崩すというのは、大変革命的な時間の過ごし方であろうと思う。数十冊〜百冊超におよぶ大量の漫画を機内に持ち込むなど、電子書籍(死語)が一般的でなかったひと昔前では考えられなかったことである。しかも読書灯がいらない。最高である。エコノミークラスの小っちぇえディスプレイで映画を観るなど、映画を暇つぶし程度にしか思っていない者が考え出した、映画に対する冒涜であると思っていた身からすると、それ以外の選択肢が生まれるというのは大変ありがたい(物理書籍の文庫本を読もうにも、暗転したエコノミークラスの機内でペカーっと読書灯をつけるのは何とも気が引けるものである)。ちなみに往路では『かげきしょうじょ!!』の最新巻と『波よ聞いてくれ』の未読分計2巻、『アクタージュ』と『チェンソーマン』の最新巻、更に『夜と海』の1〜2巻、そして復路では『はねバド!』の既刊1〜15巻を読んでいた。飛行機が北極圏を通過する頃合い、それまで真っ暗だった外において空の底がうっすらと明るくなる。そんなタイミングで「夜凪景と百城千世子……レズビアン役のダブル主演ではやく濡れ場を演じてくれ……」と念じていたら妙に神聖な心持ちになってしまった。今回の旅行において忘れ得ぬ瞬間である。

 完全なる余談であるが、12時間におよぶ長距離フライトも半ばを過ぎた頃……日本時間午前7時頃に、隣に座っていた日本人青年のiPhoneが大爆音でアニソンを流しはじめたときには「俺、どうしたらいいんだろう……」と著しい困惑状態に陥ってしまった。おそらく普段使っている目覚まし用のアラームを切り忘れていたのだと思われる。機内エンターテイメント用のヘッドホンを着用した状態で爆睡中である隣席の青年が起きる気配は一切なく、爆音で流れ続ける萌え声のアニソンがキャビンに朗々と響いている時間がしばし続く。次第に目を覚ましはじめる周囲の乗客たち……他人のスマホへ勝手に触れてアラームを止めるというのは不作法すぎる。かといって本人を起こすのも忍びない。八方塞がりの状況にあって、共感性羞恥というのはこういうときに感じるものなのか、と詮のないことを考えたものである。

 さてさて、クソデカ迷路空港ことCDGの第2ターミナルには午前4時半頃に到着した。そう、日本を午後23時半頃に離陸した飛行機は12時間におよぶフライトを終え、時差の関係で翌日の午前4時半にパリへと到着するのである。実際には12時間が経過しているというのに時計の上では5時間しか経過していないので、何とも頭がおかしくなりそうになる。しかも気温が20度近くあった東京に比べ、早朝のパリは気温が13度近くまで低下している。寒い。しかも湿度が低い分、肌を刺すような寒さである。そして日の出の時刻に至るや午前8時台であるのだから大変だ。自律神経までおかしくなりそうな心地である。悪酔いした状態での睡眠など、エコノミーの座席においては寝たうちにも入らないのだから尚更だ(今回、偶数人数のグループで長距離路線に乗る際はプレミアムエコノミー1択であることを痛感した。プレエコは大体の場合シート配置が2-4-2になっているためである。おそらく疲労軽減の効果は絶大なのではなかろうか)。

 入国審査については係員にバーーーーンッ!!! とスタンプを捺されるのみでおしまいだった。CDGの到着ロビーは午前4時半とあってガランとしている。トランジット待ちなのかそこらのベンチで人間がグースカ眠っている。荷物の受け取りに関しては近場に喫煙所があるので12時間ぶりのタバコを吸いながら自分のスーツケースが出てくるタイミングを待つことができる。最高! 羽田空港も見習って欲しい。なお外の喫煙所でタバコを吸っていると(おそらく)白タクの客引きが「TAXI?」とか言いながら無限に話しかけてくるので「ノンメルシー」と追い返すことを無限に繰り返す羽目になってしまった。

 開店していたカフェがあったのでパンと鉱水を摂取しながら到着便の掲示板を見ていると、アフリカや中東やアジアからバンバン到着便がやってきている。さすがはヒースローやフランクフルト、スキポールと並ぶヨーロッパ最大規模のハブ空港だ。午前6時前まで手許のスマホ凱旋門賞ウィークエンド初日の出馬表などを眺めながら時間を潰し、ロワシーバスなる高速バスに乗るべく移動する。そう、CDGからパリ市内までの移動手段においては、治安の観点からサン=ドニを突っ切るRER(鉄道)を避け、高速バスで移動するのが適切であるとされているのだ。外務省などは「RER(鉄道)は邦人が手荒な強盗事件に巻き込まれる事例が相次いでいるので利用は避けよ、タクシーは渋滞で止まった際に窓をブチ破って荷物を奪うバイク強盗が頻発しているので気をつけよ(白タクなどはグルになっていることもある)」という旨の声明を出しているほどだ。かような具合に、パリ郊外はとにかく治安が最悪である。

 そういうわけで、ひとり旅とあって正規のタクシーでは価格的メリットが見出せず、バスを利用することにしたのである。なお今回の旅行においてロワシーバスの券売機でのみ、持参したVISAのクレジットカードが使えなかった。今後パリへ行くひとがいれば注意されたし。 ロワシーバスの経路としてはCDGの各ターミナルを回り、ハイウェイでサン=ドニの街を突っ切って、モンマルトル方面を抜けてオペラ座のバス停に到着といった感じである。そしてバスの車窓から見えたサン=ドニの街並みがすごかった。すごかったというのは、話に聞いていた以上の荒れようですごかった、という意味である。たぶんこれまで日本において目にしたグラフィティアート(壁の落書き)の総量を、たった数分間で通過したにすぎないサン=ドニの街のグラフィティアートが量にして軽く超えていたのではないかと思えるような、そんな景色であったのだ。ボロボロになった公共施設とおぼしき三階建ての建物全体がグラフィティアートに覆われているとか、車道脇の壁が数百メートルに渡ってグラフィティアートに埋め尽くされているとか、街中にとんでもない量のゴミが散乱しているとか、一事が万事そういう感じである。こういっては何だが、ちょっと異様な光景だった。確かにこの街を通るRER(鉄道)の、特に各駅停車には強盗に遭うリスクがあるから絶対乗るなというのは、まぁそれなりの説得力があるなと思った次第であった。で、午前7時ちかくにオペラ座へついた。オペラ座のバス停周辺は手練れのスリたちによるヨーロッパ選手権会場だ、くらいの勢いで聞いていたのだったが、まぁ早朝とあってか人気はなく、スリたちもさすがにこの時間には活動してないよなとか思いつつ、ホテルへ徒歩で移動した。ダメもとでアーリーチェックイン可能かを確認する目的と、邪魔くさいスーツケースをフロントで預ける目的である。

 日の出は午前8時台なので、午前7時頃であるというのにまだ外は真っ暗だ。ガラガラとスーツケースを引きながら石畳の歩道を歩いていると、あぁヨーロッパの街に来たなという感じになってくる。ぼくは扁平足であり足裏が物凄いダメージを負いやすい体質なので、アーチ補助のインソールを入れたニューバランスの900シリーズ(足裏が全然疲れない)以外で石畳で舗装されたヨーロッパの街を歩ける気がしない。オペラ座界隈をサン・ラザール駅方面めがけて徒歩で移動していると、高級百貨店の居並ぶ通りに恐るべき数の段ボールハウスが鎮座しているのが見て取れた。街の構えは大変立派ながら、そこかしこから景気の悪さが滲み出ているという、いわばある種の「パリらしさを」いきなり見せつけられた格好だ。

 ホテルに着いてフロントへスーツケースを預けると午前8時を回っていた(やはりアーリーチェックインは部屋が満杯なので出来なかった、そりゃそうだ)。まだ外は暗いままだ。フロントのお兄さん(超ナイスガイ)の爽やかスマイルに見送られると、途端に手持ちぶさたになってしまった。ロンシャン競馬場への移動は正午頃だ。まだ門が開いていないしポルト・マイヨの駅からシャトルバスも出ていないであろう。あと4時間は、どこかで時間を潰さなくてはならない。小雨が降るなか、適当なカフェに入りエスプレッソと朝食を摂り、何となく持参した地球の歩き方を開くが、どの観光名所にも驚くほど心を惹かれない。エッフェル塔凱旋門付近はヨーロッパ有数の軽犯罪天国だと聞くし、行くのもなんだか「お上りさん」じみた所業のような気がして冷めてしまう。そこで適当にオペラ界隈からセーヌ川河畔にかけてをほっつき歩いたが、ザーザー降りの雨でずぶ濡れになってしまい、疲労だけが残って終わってしまった(しかし街並みはさすがに綺麗で、カッコ良かった)。

 タバコが吸いたくなったので街中で堂々とタバコを吹かす。パリの喫煙事情はロンドンなどとさほど変わらず「室内で吸うやつはブチ殺す、外はOK。お外はでっけぇ喫煙所!」というノリである。なのでその辺を行き交う市民ときたらガンガン歩きタバコをするし、吸い殻などはその辺に設置されているゴミ箱(パリの街にはゴミ箱が多い)のフチでグシャグシャに揉み潰して、ゴミ袋の中にポイッ! という感じだ。その辺に地面に落ちた吸い殻の数もかなり多い。ぶっちゃけ日本では到底信じられないような喫煙マナーがまかり通っているといった印象である。そんなこんなでその辺の街角で立ち止まってタバコを吸っていると、とにかく道行く人々から「タバコくれ」と声をかけられる。これはロンドンでも同じだった。ヨーロッパなどの社会では他人にタバコをせびるのが当たり前だからなのか、それともぼくがボケッとしている旅行者然とした見た目だから「こいつからは簒奪(さんだつ)できる」と舐め腐った態度を取られているのか、それはよくわからない。でも、仮にぼくが身長190センチ、体重110キロのキンボ・スライスみてぇなガタイだったらタバコをせびられるようなことはきっとないだろうと断言できる。ともあれ、その辺でタバコを吸っていると、明らかにぼくの財布に用がありそうな怪しげな男が「ボンジュー」とか言いつつニタニタしつつ接近してくるなどの出来事には遭遇したので、「ソーリー、ディスイズラストワン」と言いつつ距離取って立ち去る、みたいなことはあった(ぼくの中の警戒センサーが「あいつ普通のタバコせびり人(びと)と雰囲気が違う」と警報を発したため)。タバコせびる振りをして荷物や貴重品を強奪、などの犯罪被害もパリ市内では多いと聞いていたので、まぁ用心するに越したことはない。パリの街中を歩くとことほど左様に軽犯罪への警戒をせねばならず、気疲れする。

 脱線はさておき、歩き疲れてまたカフェに入る。パリの街にはとにもかくにもカフェが多い。道を歩けばカフェに当たる、といった風情である。そしてコーヒーが美味い。パンも美味い。コーヒーが美味いのは、おそらくヨーロッパの水道水が硬水だからであろう。そういえば以前ロンドンで飲んだ紅茶も美味かった。パリのコーヒーもロンドンの紅茶も、日本で飲むそれらよりも遙かに美味かったように記憶している(なので帰国後、ものは試しとエビアンを沸かした湯でコーヒーを淹れてみた。すると、バッチリとパリで飲んだコーヒーの味に近づいたことを付記しておく)。

 カフェを辞去し、しばらくまた街を歩き、今度はマクドナルドにやってきた。トイレを借りるためである。そう、ヨーロッパの街のなかでもパリは公共のトイレが本当に少ない。あったとしても有料である。そんなわけで、機内で飲んだ酒のせいでひどい二日酔いに陥っていたぼくは、酒に弱い者の常として全自動下痢便噴射装置じみた人間と化しており、一刻も早くどこかでトイレを済ませる必要があった。緊急事態が差し迫っていたのである。そしてぼくは知っていた。「ヨーロッパにおいて、綺麗な便器でウンコがしたければマクドナルドへ行け」という格言である。

 パリのマクドナルドは実に合理化が進んでいた。まず店の入口にある無人のタッチパネルで使用言語を選択する。日本語があった。その昔、会社へ入る際に受けさせられたTOEICのスコアが280点であるぼく=馬鹿は、迷わずそれを選択する。いまさらだが、フランス語など「メルシー(ドーモ)」「ノンメルシー(いらねぇよ)」「ボンジュー(こんちゃす)」「ボンソワー(おばんどす)」「オルヴォワー(さいなら)」「トワレット(便所)」「ラディシオン、シルヴプレ(お会計お願いします)」くらいしか分からない。なお大学時代に選択していた第二外国語はドイツ語であったが、こちらはこちらで「イッヒ、ビン、上田敏(私は上田敏です)」しか分からない。どちらにしろダメである。

 使用言語に次いでは、店内での飲食か、もしくはテイクアウトかを選択する。両者でどうも税率が変動するらしい。日本と同じだ。店内での飲食を選択肢、タッチパネルで注文する商品を選択し、あとはクレジットカードで決済をする。メニューを見ると、ホットコーヒーのラインナップ筆頭として小さな紙カップに入ったエスプレッソがあるではないか。何ともフランスらしい次第だなと、ぼくはそれを注文することにした。すると「こちらもいかがですか?」と何やらアイスクリームのような品々が画面上に次々とポップアップしてくる。そんな腹冷えるもんいらねぇよ。俺はいまウンコがしてぇんだよ。そういう次第で、一連のセルフでの注文プロセスを終えるとレシートが機械からペッと吐き出される。あとはカウンターで番号を呼ばれ、注文した品を受け取るだけだ。

 そう、パリのマクドナルドは日本と同じく、レシートに記載された番号と引き替えにカウンターで注文した品を受け取る仕組みなのだ。そして、ここで重大なことに気がついた。フランス語におけるアン、ドゥ、トロワ、以外の数字の読みが皆目わからないのである。参ったなと思いつつも、周囲の客は次々と番号を呼ばれ商品を受け取っているではないか。ぼくは汗だるま(全てが冷や汗)になりながらトレーにちょこんと紙カップだけが載っている商品がやってこないか集中力を研ぎ澄ませた。ウンコの我慢に集中力の約10割を使っていたので、ここで他のことに集中するということは、すなわちウンコ我慢に用いるリソースが他のことに回されることを意味する。幸いぼくの括約筋は十全なはたらきをしてくれたようで、無事にエスプレッソを受け取ることに成功した。パリでのクソ漏らしは無事回避されたのである。

 そしてウンコである。ぼくは熱々のエスプレッソを2秒で飲み干し、早速トイレへ向かうことにした。トイレの扉の解錠パスは、マクドナルドの場合レシートに記載されているという。無料でトイレを開放すると客以外の不届き者に使われたり、はたまた変なことに使われたりするからだろうか。だが肝心のパスがレシートに記載されていない。ぼくは混乱した。もうウンコが出そうなのでIQが著しく低下しており、まともな判断などはたらきようもない状態である。ええいままよと力任せに電子錠つきの扉を押すと——開いた。パスなどなかったのである。トイレの内部には個室の扉がいくつかあった。そのなかのひとつを開こうとすると、何と開かない。誰かが入っているのか? と思い扉をよく見ていると、こんな文言が記載されていた。「50セント硬貨をいれてね」。財布を見る。バスの運賃で10ユーロあまりを払った際の釣り銭があったはずだ。だが1ユーロ硬貨や20セント硬貨、10セント硬貨しか財布のなかには存在しない。詰んだ——ぼくは急いで元のホテルへ戻り、フロントのお兄さん(超ナイスガイ)にTOEICスコア280点レベルの流暢な英語(大嘘)で事情を説明し、お兄さんは「オフコース!」と気前よく応じてくれた。ホテルのトイレは超綺麗であり、すげぇ勢いでウンコが出た。

 最終的にサン・ラザール駅地下にあるスターバックスで時間を潰した。なぜスターバックスだったかというと、街のカフェでは少々長居しているだけで「注文ないの?」といった具合に即座にテーブル担当の店員がやってくるからである。追加の注文をすればいいだけの話ではあるが、何となく長時間ひとりで時間を潰すのは店に申し訳ない心持ちがして具合が悪い。となれば慣れ親しんだスタバだ、とKindleの漫画を読んで時間を潰した。しかもスタバ店舗のすぐそばには有料トイレが存在している。10セント硬貨1枚を係員のおばちゃんに渡せば気前よくウンコができる有料トイレの存在は大助かりだった。

 正午を回った頃合い、ぼくはスタバの席を立ってサン・ラザール駅の地下鉄改札へ歩を進めた。ロンシャン競馬場へ向かうためだ。そう、ついにかの悪名高きパリの地下鉄に乗るのである。用心に用心を重ね、気を引き締めて乗ることにした。曰く「切符を買う際は気をつけろ、なぜなら犯罪者の格好の標的だから」「ニセ駅員に気をつけろ、なぜなら観光客にニセ切符をつかませる詐欺師だから」「改札では背後を必ずチェックしろ、キセル乗客やスリが狙っているから」「財布やスマホを出すな、なぜなら強奪されるから」「腕時計は外せ、なぜなら金持ちと判断されスリの標的にされるから」「ブランドの袋はバッグの中に隠せ、なぜなら犯罪者の標的にされるから」「怪しい子どもの集団に近づくな、なぜなら囲まれて荷物を奪われるから」「ドアの近くに立つな、なぜならスリに狙われるから」「貴重品をポケットにしまうな、なぜなら気づかないうちにスられるから」「バックパックを背負うな、前に持て、なぜなら神業レベルのテクでファスナーを開けられるから」「1号線は気をつけろ、なぜならあそこはスリ(種目)のオリンピック会場だから」「車内の物乞いは目を合わさずにやり過ごせ、なぜならあいつらは元締めに雇われた職業物乞いだから」など評判は散々である。ちなみに郊外の低所得地域を通るようなRERはこれとは比較にならないほど治安が良くないらしい。パリ初心者は絶対乗るなとのこと。どうなってるんだパリの公共交通機関。駅から駅まで移動するだけでも軽犯罪者に警戒をしないとならない。日本のメトロでドア付近に寄りかかり、ぼけーっとツイッターで「ちんぽ」などと投稿している普段の自分からすると到底信じがたい話である。修羅の国だ。

 で、結論からいうと滞在中特に地下鉄で犯罪に遭うようなことはなかった。とはいえ地下鉄の通路は照明が少なくて暗いし、車両は引っ掻き傷による落書きが多いし、窓から見える地下鉄の路線際は一面落書きだらけだし、夕方のラッシュにもなると明らかに獲物を物色していそうな怪しい子どもの集団がたむろしてるし、ホームへ降りる階段の出入り口では小さな子どもを抱きかかえた女のひとが地面に座り込み物乞いをしているし、車内では「私は軍にX年間勤めていました」的な札を首から提げた傷痍軍人が物乞いをしているし、何事かを喚き散らしながら物乞い用のプラカップを振り回している目線の定まらない(明らかに薬物中毒然とした)骨と皮だけになった老人が乗客に絡んで回っているし、北部や東部と比べて治安がマシとされているパリ右岸中心部を走る1号線などの路線であっても、まぁこんな感じの雰囲気ではあった。ヨーロッパの景気の悪さを目の当たりにした感じである。ぼくは大阪市内に5年弱住んでいたことがあるが、海外のバックパッカーが西成の安宿をよく利用するといのは、確かにまぁそうだろうなと妙な納得感を覚えたものだ。パリ市内中心部のそこかしこで見られるような雰囲気の悪さなど、日本のどこへ行ったとしても見られるような類のものではないからだ。これは貴重な経験をしたと思う。

 そんな次第で、滞在中スリなどには最大限警戒をしつつ半ば緊張状態で地下鉄を利用したが、実際のところパリの市民は毎日何食わぬ顔で移動手段として利用しているわけだし、アジア人の見た目がゆえ標的にされやすいことを差し引いても果たしてそこまで警戒する必要はあっただろうか? という疑問は個人的に残った。とはいえかつて利用したロンドンの地下鉄より遙かに雰囲気が良くなかったことは事実だし、日本の地下鉄へ乗るときの感覚で利用できるものでは到底ない、ということもまた事実だ。なかなかに刺激的な体験だった。

 修羅の地下鉄を乗り継ぎポルト・マイヨ駅に到着する。ここからロンシャン競馬場へ無料のシャトルバスが出ているからだ。バスの行き先表示には馬のマークが描かれている。実にわかりやすい。それどころか、バス停には日本語で「無料シャトルバス」とまで書かれているではないか。2006年のディープインパクト遠征からであろうか。凱旋門賞の観客は日本人旅行者がとても多い。そのため競馬場には日本人スタッフまで配されていると聞く。何だか大森駅大井町駅から無料バスに乗って大井競馬場へ行くときのようだ。そんなことを思いながらバスに乗る。ロンシャン競馬場凱旋門賞ウィークエンドは土日の2日間開催だが、初日である土曜日はそこまで人出がないためか、悪名高い渋滞にはハマらず、スムーズに競馬場へと到着した。

 何だ、これならすぐに入場できそうだ。そう思ったわけだったが、しかしかの有名なロンシャン競馬場正門では荷物検査とボディチェックの列が長々と形成されていた。これには少々辟易とさせられた。入口にはランペイジ・ジャクソンみたいな体格のセキュリティがいて、「ムッシュー!」とか「マダム!」とか言いつつ客を整列させている。入場待ちで手持ちぶさたになったぼくは、列の脇にいるレーシングポスト(英国の競馬新聞)の売り子へ「1部ちょうだい」と小銭を出す。すると他の客たちも「俺もくれ」といった具合に売り子氏めがけて群がりはじめた。だがこの売り子、信じがたいほどお釣りの計算が遅く、手際が悪い。瞬く間に売り子周辺がちょっとした混乱へ陥ったのが面白かった。

 英国の競馬場ほどではないが、凱旋門賞ウィークエンドのロンシャン競馬場はチケットの価格により入場できるエリアに制限がある(英国の競馬場はすごい、エリアの区分けが本当に厳格だ。これこそ階級社会と思わせるに充分なものだった)。ぼくがチケットを買ったのはいわゆる「ウィニングポストエンクロージャー」、スタンド席の立ち見席であり、ホームストレッチ側にあるスタンドやパドックに出入りでき、しかもゴール前の絶好のエリアでの観戦が可能なチケットだ。そう、一般席においては最上級のチケットである。

 そしてボディチェックの列は、見たところチケットの種別で分けられているようだった。「ウィニングポストエンクロージャー」のような内容がフランス語で書かれた列が短く、空いている。「はっは、これぞ上級チケットの特権よ」とばかりにそちらへ並ぼうとすると、ランペイジ・ジャクソンじみた体格のセキュリティに「ノン、ノン、ムッシュー」と腕を掴まれ力づくで制止された。うゎちから強い、何だ何だと思っていると、どうもその列は女性専用レーンらしい。ぼくは下級チケットの列に並ばされた。見ていると、同じことを考えたのか上級チケットを手にした紳士諸兄が「ウィニングポストエンクロージャー」の列に突撃し、同じようにランペイジ・ジャクソンに止められている様が視認できた。何らかの理由で本来の運用から列形成のやり方を変えたがために、混乱が起こっているのだ。何だよ! 女性専用レーンならそう書けよ! そう思いつつ、ボディチェックと荷物検査を受けて入場した。とにかくセキュリティの数が多い。誰も彼もアフリカ系の巨漢ばかりだ。ガタイから顔までボブ・サップと瓜二つのセキュリティさえいた。ヨーロッパ競馬の年間ハイライトともいえるイベントである凱旋門賞ウィークエンド。英国、アイルランド、日本からの観戦客も多く、テロ防止なのか、まさに厳戒態勢だ。凱旋門賞にはチェコからの遠征馬であるナガノゴールドも出走するから、東欧からの旅行客もひょっとしたらいるかもしれない。

 で、念願のロンシャン競馬場である。2006年にディープインパクトが出走した凱旋門賞の中継映像を当時NHKで観て以降、いつか来たいと願っていた競馬場だ。夢が叶った瞬間である。ぼくは正門の大階段をのぼり、お下品な色合いをした金ピカの新スタンドを抜けてゆく(スタンド内部のつくりは驚くほど簡素である、旧函館競馬場スタンドのつくりがそれに近い)。すると、世界一美しいといわれる競馬場のコースが視界に入った。だが、

「縮尺をデカくした京都競馬場みたいなコースだな」

 それが偽らざる、ロンシャン競馬場に対して抱いた第一印象である。ぼくはフランス人騎手であるオリビエ・ペリエクリストフ・ルメールらの言葉を思い出した。曰く「京都競馬場ロンシャン競馬場によく似ている」 そりゃそうだとぼくは思った。あまりに見た目が似過ぎている。高低差のあるコースとは聞いていたが、スタンドから見る限り何となく平坦に見える(実際はそんなことはないのだが)。京都とロンシャン、両者に違いがあるとすれば、①芝の品種や路盤を含めた馬場の質においてロンシャンの方が遙かにタフなコースであること、②ロンシャンの方が遙かに外周距離が長いこと、③向こう正面とホームストレッチの高低差がロンシャンの方が遙かにえげつないこと、④フォルスストレートの有無。それくらいである。そういうわけでぼくは、何となく肩透かしを食らったような気分になった。というのも、かつて英国のチェルトナム競馬場をこの目で見た際の衝撃のようなものを、ロンシャン競馬場に期待していたからである。

 チェルトナム競馬場は凄かった。まずコースの敷地が日本では考えられないほどに広かった。向こう正面のバックストレッチなど、スタンドからの距離が遠すぎるあまり霧で霞んでいたほどである。そしてコース全体の傾斜がえげつなかった。コッツウォルズの丘陵地帯にそのまんま競馬場を建てているものだから、競馬場の芝コース全体が斜めに大きく傾いでいる。頭の中で一般的な競馬場のコースを3Dモデルめいてイメージし、それを10度ほどの角度でグイッと傾けると、だいたいぼくが目の当たりにしたチェルトナム競馬場そのものになる。そのため最後の直線はゴール板過ぎまで延々と鬼畜じみた上り坂が続くのだ。そうした坂があるから、ゴール板を過ぎた馬は騎手が手綱を引くまでもなく急減速して止まっているほどだった。更にコースとスタンドを隔てる埒(ラチ ※柵のこと)のつくりが粗末だった。まるで「とりあえずおっ立てときました」といった具合にグニャグニャのズビズビである。そして何よりも馬場のタフさが物凄かった。芝など生えるに任せているといった次第でボーボーだし、路盤などそこら中ボコボコの穴だらけだ。綺麗に整地され、平坦な日本の競馬場の芝コースとはまるで正反対である。と、まぁことほど次第に英国の競馬場は凄まじい。スーパーハードモード鬼畜コースでお馴染み英国ダービー(余談だが英国ダービーの別名は「ザ・ダービー」だ。まこと英国らしい話である)が行われるエプソムダウンズのコースや、これまた2000mの直線コースがあることで有名なニューマーケットのコースなども、実際生で見たら同じような衝撃を受けるのではないかと思う。それに比べるとロンシャン競馬場の芝コースは遙かに平坦なように見えたし、綺麗に整地されたトラック状のコースは日本のそれと大差ないように思われた。ボコボコの穴だらけなんてことは決してなく、「とりあえず丘陵にある芝の生育地にコース状の柵立てときました」といった英国やアイルランドの競馬場とは、まるで似ても似つかない。もしかして、フランスと英国およびアイルランドって競馬の文化が違うのか……? そんなことを思ったほどである。

 だが、そんな思い込みは実際にレースを見ることで打ち砕かれることになる。ぼくは今回のロンシャン競馬場において日本とヨーロッパの競馬がまるで別の競技であることを思い知らされた。どのレースの走破タイムも、ひっくり返るほどに遅いのだ。ヨーロッパ特有のスローペースを差し引いても、である。雨で馬場が悪化していたがゆえ馬に必要とされるパワーが桁違いになり、日本で行われる同距離のレースと比べて10秒ちかく時計が遅かったのだ。これは凱旋門賞の日本馬全滅かもな……翌日の凱旋門賞当日に至るまでこの傾向が変わらないことを確認したぼくは、そんなことさえ考えた。そしてその読みは、丸っきり的中することになるわけだ。

 競馬を知らない各位においては、日本のレースの走破タイムが同じ距離においてヨーロッパより10秒ちかくも速いのであれば、日本の競馬の方が高いレベルにあるのではないか? そう考える向きもあるかもしれない。だが違う。この走破タイムの違いとは、求められる馬の能力の違いによるものだ。平たく言うと、日本の競馬はとにかくスピードが求められる。平坦で、坂もそれほどなく、整地された水はけの良い芝コースを速く走ることを求められる。それが日本の競馬だ。

 一方、ヨーロッパの競馬はとにかくスタミナとパワーが要求される。アップダウンの激しいコースで、さほど整地されていない水はけの悪い芝コースをタフに走り抜く能力が求められる。両者はまるで正反対だ。ゆえに、ヨーロッパに短期遠征した日本の一流馬が惨敗し、反対にジャパンカップなどのレースにおいて日本に遠征してきたヨーロッパの一流馬が惨敗するような現象が発生する。これは上記の通り、競技としての方向性の違いに起因する。なおここからは持論の話に他ならないが、真の最強馬はサラブレッドとしてのあらゆる能力が突出しているため、両者の方向性の違いなど関係なく、日本でもヨーロッパでも比較的良い成績を収めている。かの三冠馬オルフェーヴルや、フランスのモンジューウマ娘でブロワイエのモデルとなった馬)などが良い例だ。ちなみにこの話は芝2000mや芝2400mなどの根幹距離に限った話で、芝2200mなどの非根幹距離では少々様相が異なってくる。こちらに関しては日本遠征時の勝ち鞍があるイタリアのファルブラヴ、英国のスノーフェアリーなどが良い例だ。とまぁ、オタク語りはこの辺にして。

 さて、フランスでの初馬券である。まずタッチパネル式の券売機で馬券を買うのだが、この際に場名、レース番号、式別、馬番を選ぶのは日本とさして大差ない。購入にあたっては現金とクレジットカードが使えるとのこと。クレカでギャンブルとは悪魔の発想だろうか。にしても、ユーロ紙幣は貧弱でありすぐ紙屑同然のクシャクシャ状態になってしまう。なのでその辺で買い物をした際にお釣りとして貰ったユーロ紙幣は往々にしてズビズビのクシャクシャだ。だから券売機に入れたところで機械に認識されず吐き戻されることが多々あり苛つく。仕方なくクレカで馬券を買った。確か2レースくらい連続で外したと思う。馬券自体もペナペナのペラペラなレシート状のものであり、グチャグチャにしてゴミ箱へ捨てるのにさしたる抵抗感が生まれない。

 続いてのレースでは現金で馬券を購入した。「高額紙幣崩そ……せや! 馬券買って崩したらええんや!」という発想からである。ぼくは50ユーロ札を券売機に突っ込み、5ユーロ分の馬券を買い、そして問題が発生した。馬券を出力してなお、一切お釣りが出てこないのである。「ワッツ?????」と混乱したぼくはタッチパネル式の画面の下方に「お釣りの45ユーロを出しますか?」といった内容のボタンがポップアップしていることに気づいた。よかった、これで釣り銭が出てくる……が、券売機から出てきたのは何らかのレシート1枚っペラのみである。 「俺の45ユーロが何かよくわからんレシートになっちゃった!!! 助けて!!!!! 救命阿ッ!!!!!!!!」ぼくはロクにフランス語も喋れんくせに有人馬券販売所の窓口に泣きついた。謎のレシートを差し出すと、窓口のおばちゃんは気前よく45ユーロを現金で出してくれた。「メルシーボク!!!」鼻水を垂らしながらぼくは言った。そう、あの謎のレシートとはお釣り引換券および、お釣りの金額分の馬券が買えるバウチャーであったのである。初見殺しやんけ!!! わかるかそんなん!!!

 なお、やはりというべきか、場内には日本人の客がそれなりにいた。各々の格好は「会社帰りのリーマンか」みたいな肩が潰れたヨレヨレのスーツを着たオッチャン、高そうな仕立てのスーツをビシッと着こなしてるグラサンの兄ちゃん、場に合わせて小綺麗な格好をした姉ちゃん、大学生とおぼしき雰囲気を発する普段着の兄ちゃん×3〜4、バックパッカーかお前みたいな格好をした俺(最悪)、といった雰囲気である。ヨーロッパの格式高いレースなんだからそれなりの格好をしないと浮く、あるいは入場を断られる、なんて思い込みもあるかもしれないが、結論からいうと「好きな格好で来い」だ。現地の客など日本のWINSにいるオッチャンと大差ない格好の者もいるわけで、一般席には端(はな)からドレスコードなどないのである(指定席のことは知らん。ぼくがチケットを取った際、指定席は既にソールドアウトであったからだ)。

 一般席であっても上級エリアはジャケット着用や襟付きシャツでないと入場できない、というのはどうやら英国競馬に限った話であるようだ。フランス競馬はそんなことはないようである。とはいってもさすがは凱旋門賞ウィークエンド。着飾った人びとが大勢いる。ビシッとスーツを着こなしたヨーロッパの人びとが売店シャンパーニュやギネスビールで宴会をしている様などを見ていると、あぁヨーロッパの競馬場だなという感じがする。そして傍らの芝コースではゴドルフィンブルーの勝負服(ドバイ首長たるモハメド殿下はヨーロッパ競馬界の大馬主であり、彼の馬に跨がることを許された騎手は、上半身真っ青の勝負服を着るのである)やクールモアスタッドの紫の勝負服が、颯爽と駈けてゆくのである。出走馬に跨がる騎手にはフランキーがいて、ライアン・ムーアがいて、ウィリアム・ビュイックがいて、ミカエル・バルザローナクリストフ・スミヨン、ピエール・シャルル・ブドー、イオリッツ・メンディザバル、マキシム・ギュイヨンと、それから日本では久しく見ていないオリビエ・ペリエもいて、武豊もいて、日本では絶対に見ることはないであろうエイダンの倅(せがれ)、ドナカ・オブライエンもいる。*1レープロの調教師欄を見るとジョン・ゴスデン、エイダン・オブライエン、チャーリー・アップルビー、アンドレ・ファーブルなど世界的名伯楽の名がずらりとならぶ。もはや夢のようだ。ぼくは卒倒しそうになった。そしてふと傍らに目を移すと、スーツやドレスを着たグループの中に背中が大きく開いたドレスを着た(ガルパンの押田が20代後半に成長したみたいな)パツキンの美女がいて、彼女の脇腹あたりからバッチリとタトゥーが覗いているのが視界に入った。カッコ良さにあてられたぼくは卒倒した。

 凱旋門賞ウィークエンド初日は負けに負け、カドラン賞(G1、芝4000m)でグリグリ大本命のディーエックスビーが伸びきれず負けるに至り、「こんなん当たるかバーカ!!!!」と最終レースを残して逃げ帰るように帰りのバスへ乗車した。この日の各馬はともかく走りにくそうに、まるで藻掻き苦しむかのようにロンシャンの芝コースを走っていたように思う。映像越しにはわかりにくいものだが、実際に生でレースを見ると馬の苦しみ具合というか、「みんな脚残ってないじゃん、バタバタやん。苦しそう〜〜〜」というのが手に取るように理解できる。あれは不思議だ。

 ロンシャン競馬場はパリ市内西方に広がるブローニュの森のただ中に位置している。ブローニュの森は日の出ているあいだこそ市民の憩いの場然とした顔を晒しているが、夜のそこはまさに赤線地帯そのものであると聞く。確かにバスの車窓からはそうした明らかに街娼らしき人びとの姿が見え、道路から外れた森の奥で何やらよくわからないものを吸引(?)している女の姿を見つけるにいたり、「とんでもねぇ都市へ来ちまった……」と思ったものだった。東京で喩えるなら夜の井の頭公園が昼間とは一転し赤線地帯と化すようなものである。凄まじい都市だ。

 凱旋門賞ウィークエンド二日目。メインイベントたる凱旋門賞はこの日に行われる。少し早めの午前11時半頃に前日と同じくポルト・マイヨ駅についてみると、競馬場行きの無料バスに乗ろうとする人びとが鈴なりになっていた。これは初日とは雰囲気が違うぞと思っていたが、予感は的中した。道中凄まじいまでの渋滞に巻き込まれ、バスは徐々にしか進まない。結局、初日において片道10分少々だった道をおよそ1時間かけて行く羽目になってしまった。そして入場門はまたしてもボディチェック待ちの列である。正門に入るとレーシングプログラムの売り子がいる。凱旋門賞当日のレープロは分厚く、つくりもしっかりとしており、有料だ。価格は確か5ユーロだったと思う。それにしても凱旋門賞当日の周辺道路の渋滞は凄まじい。比較的細い道しかない道路の輸送キャパを、競馬場に向かう車の交通量が遙かに上回ってしまうからだ。競馬をご存じの方であれば、凱旋門賞のレース映像において内馬場一面に駐車された車がひしめいている様子を見たことがあると思うが、まさに渋滞の原因はあれである。

 競馬場へ到着したのは午後12時半頃。第1レースの発走まで2時間程度ある。前日は行けていなかった低級チケットのエリアでも冷やかしに行くかと舐め腐った態度で場内をほっつき歩いていると、日本人の客たちがレース写真撮影用の場所取りをしているのが目に入った。踏み台用の小さな脚立のようなものまで置かれている。当然、現地の客や英国などからやってきた客でそんな恥ずべき行為をしている者など誰ひとりいない。ついでに言うと上級チケットエリアにもそんな日本人客はいなかったように思う。まぁこれは撮影スポット的に低級チケットエリアの方がゴール板付近の馬を良い画角で撮りやすいという理由からだろうが(低級チケットエリアはゴール板を少し過ぎた地点にあるため)、とにかくダサい。ダサすぎてすぐさま視界から外した。

 低級チケットエリアについてだが、低級チケットエリアと呼称したのが申し訳なくなるくらい良い感じの場所であった。酒や食べ物の屋台がひしめき合い、人びとはそこらで買った酒や飯を食いながら楽しげに談笑している。ぼくは適当にその辺で買ったホットドッグを食ったのだが、これがえらい美味かった。フランス特有の硬いパンにフニャフニャ状態のデカチンめかした魚肉ソーセージを挟み込み、そこに業務用のタルタルソースをぶっかけて食うのだが、これが滅法美味い。日本ではまず食べることができない味であると思った。さて、そんなこんなで時間を潰しているとパドックに陣取る司会役の男が日本語で「ニポンノミナサン、コニチワー! モスグ、ダイイチレースガ、ハジマリマスヨォ?」とアナウンスをはじめた。これぞホスピタリティである。第1レースは2歳牝馬限定戦のマルセルブーサック賞(G1、芝1600m)だ。ドバイワールドカップデーや英チャンピオンズデー、米国のブリーダーズカップデーや香港国際競走デーなど海外における他のビッグレース同様、凱旋門賞ウィークエンドは1日にいくつものG1レースが執り行われる。一方、日本のJRAはこういう開催をやりたがらない。馬券の売上が落ちるからだろうが、ジャパンカップの日くらいこういう感じのやり方にしてはどうだろうかといつも思う。その方が海外から遠征馬を集めやすいと思うのだが……。

 マルセルブーサック賞は武豊が乗るフランスの2歳牝馬、サヴァランが人気を集めていた。ディープインパクトの子どもの日本産馬、しかもフランスの名門アンドレ・ファーブル厩舎の実績馬、オーナーは武豊パトロンたるキーファーズとあって、日本でもたびたび耳目を集めていたサラブレッドだ。しかも鞍上は武豊。当然、場内の日本人客はサヴァラン応援一色といった風情になる。一方のぼくは性根がねじ曲がっているので「こいつらは昨日のレースタイムを知らないのか……? 実におめでたいヤツらだ……スピードと切れ味に秀でたディープインパクト産駒がこんな重たい馬場で弾けられるわけがねぇ……いくぞ、逆張りだッ!!!」とか言いながら馬券の券売機へと向かっていった。サヴァランの対抗格と黙されているアイルランドの2歳牝馬、アルビグナの単勝馬券を買うためだ。

 さすがは凱旋門賞当日、とにかく人が多い。かたやロンシャン競馬場の券売機は有人窓口を含めて驚くほど少ない。ただでさえ少ない馬券購入の窓口や券売機に人びとが殺到していたのである。そして何より、日本人客がちんたら何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も馬券を買うものだからそこがボトルネックになっていていつまで経っても馬券が買えない(ぼくの並んだところだけだったのかもしれないが)。ぼくは苛つき、ついには額が血管でビキビキになった範馬勇次郎のような面持ちになってしまった。

 これは英国でもそうだったのだが、おそらくヨーロッパの一般的な競馬ファンと日本の一般的な競馬ファンでは馬券に対する考え方が根本から違うのではないかと思う。そもそも英国の競馬場ではブックメーカー(賭け屋)の出店で馬券を買うのが一般的だ。ブックメーカーが売っているのは一般的に単勝複勝・イーチウェイ(単複同額)の三種類であり、そうなると必然的に一点勝負といった趣が強くなる。穴目待ちでハンデ戦単勝を全通り買いした馬券を現地客に見せた際、ガチでドン引かれたことが過去にあった。多点数買いで穴目を狙いに行くやり方は、おそらく向こうでは一般的ではないのだと思う。現地で見聞きした経験ベースの話でしかなく恐縮だが、おそらくフランス競馬ファンの馬券に対する考え方も、英国とほぼ同じだろう。多点買いをする文化はあまりないように思われた。フランスの馬券は英国と異なりフランスギャロ(日本でいうJRAのようなもの)が発売したものを買うことになるわけだが、その式別については単勝複勝馬連馬単、ワイド、三連複、三連単どころか単勝ジャックポットや四連複や五連複なんてものまである。日本以上にバラエティ豊かだ。だが、異なる組合せの馬券を何枚も何枚も買っている馬券購入者をロンシャン競馬場現地で見ることはなかった。大概が1枚買ってはい終わり、だ。払戻の列に並んだときなど、前にいたオッチャンが三連複1点50ユーロの馬券を差し出し凄まじい額の払い戻しを受けていた。タッチパネル式の券売機についても流しやフォーメーション馬券には非対応で、そういうのが買いたい人は別途マークシート使ってね、といったふうであった。

 そういうわけだから、馬連だか馬単だか三連複だか知らないが、複数枚の馬券を買うべく券売機の前を長時間占有する日本人の客の多さには開催二日目において終始辟易とさせられた。おみやげの記念馬券で凱旋門賞の馬券を買っていた人もいたんじゃなかろうか? そういうのは何とはなしに「みっともねぇな」と思ってしまうので止めて欲しいなと思ったのであった。


 レースである。馬群がフォルスストレートを過ぎたあたりで周囲の日本人客たちが「ユタカー!!!」などと無駄な叫び声を上げはじめた。そして案の定というべきか、サヴァランは重馬場に脚を取られたのか馬群の中で著しく伸びを欠いていた。かわりに大外からジワッと伸びてきたのはぼくの大本命、アイルランドの2歳牝馬……アルビグナである。残り400m地点。ジョッキーのシェーン・フォーリーが激しいアクションで馬を追いはじめる。そして「ユタカー!!!」と雄叫びを上げる日本人たちに混じり、ぼくはこう叫んでいた……「フォーリ—!!! 差せッ!!! 他の馬ブッ倒せ!!!!!!!」と。日本競馬界の努力の結実とでもいうべきディープインパクト産駒の2歳牝馬——それを応援する日本人らに混じり、アイルランドの対抗馬を全力で応援する冒涜的行為。まさに朝敵となった気分である。勝ったのはアルビグナ。2着馬との着差は2馬身半。快勝といっていい。勝ちタイムは1分41秒26だった。道中のスローペースを差し引いても1マイルのレースとしては激遅である。参考値に過ぎないが、日本の東京競馬場において同じ距離で行われた2019年10月19日の新馬戦(まだレースを走ったことのない2歳馬が出るレース)でさえ走破タイムは1分36秒9であり、更に同じ距離、同じ条件(2歳牝馬限定)で行われた昨年2018年12月9日の阪神ジュベナイルフィリーズ(その年の2歳牝馬チャンピオンを決めるレース、阪神競馬場)の走破タイムは1分34秒1である。これらと比較すれば、1分41秒26という走破タイムが日本基準にしていかに異常なものであるか分かると思う。2歳牝馬の一流馬が揃うG1レースであるにも関わらず、という点も考慮いただければ幸いだ。

 これは凱旋門賞に出る日本馬3頭ぜんぶダメだな、馬場があまりにもタフすぎる。そう思った。しかし、自らの手には既に購入し終えていたエネイブルとフィエールマンのワイドが握られていた。しかも5ユーロ分も買ってある。間違いなくこれは紙屑になる。ぼくは泣いた。せめてエネイブルとガイヤースとソットサスとフレンチキング(超大穴)の馬連ボックス、あとはできたらエネイブルとナガノゴールド(超大穴)、エネイブルとフレンチキング(超大穴)のワイド、どれかだけでも金になって戻ってきてくれたら嬉しいなと、そんなことを考えた。

 結論からいうと、最初のレースで2連勝したのちはそれまでの勢いが嘘のようにその後のレースではボロ負けした。凱旋門賞含め、である。そう、凱旋門賞を現地観戦したからには「エネイブルが負けた」という事実に触れなければならない。負けたのである。信じがたいことに、あのエネイブルが。

 エネイブル(Eneble)という英国の牝馬がいる。あの凱旋門賞の日に至るまでの生涯戦績は、実に14戦13勝。世界のビッグレースを渡り歩きながら、デビュー2戦目を除いて敗北はただひとつとして彼女の戦績欄に存在しない。獲得したG1競走のタイトルの数は10に及ぶ。2017年・2018年の凱旋門賞を2連覇し、2017年・2019年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを2年越しに連勝、そして2018年には米国に遠征しブリーダーズカップターフを勝利した、英国・愛国・仏国・米国4カ国のG1競走の優勝経歴を持つ名馬中の名馬である。つまり、競馬を知る者であれば誰しもが認める世界の芝中距離路線最強の馬に相違ない。そんな彼女の主戦騎手はイタリア人のランフランコ・デットーリ。フランキーの愛称で知られる、これまた競馬を知る者であれば誰もが認める天才騎手だ。

 ↑2019年の英国競馬上半期ハイライト、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(G1)。牡馬最強のクリスタルオーシャンとの対決。「こっから何km先まで競り合おうが絶対に抜かせない」とでもいわんばかりの粘り強さで牡牝最強馬同士のデッドヒートを制し、エネイブルが優勝した。英国のメディアをして "There are no words." あるいは "This is sport. This is horse racing."と言わしめた最後の叩き合いは、まさしく鳥肌モノである。一見の価値あり。

「Enable(可能ならしめる)」というただひとつの語のみを冠した馬が最強であるというのは、あまりに出来すぎた話であると言わざるを得ないが、しかし現実にエネイブルという馬は最強であったのだから仕方ない。どの位置からでもレースを運ぶことができ、あらゆるコースや展開に対応でき、騎手のゴーサインには恐るべき加速力で応えることが可能で、そして競り合いになれば相手に着差を譲ることが決してない。つまり死角が存在しない。幾多の名馬・名牝たちが彼女へ果敢に挑んでゆき、散っていった。そのレースぶりたるや、たとえ何万回同じレースを繰り返したとしても彼女の1着は揺るがないだろうと、見る者にそんな印象を抱かせるほどである。

 そんなエネイブルが凱旋門賞3連覇という前人未踏の偉業へ挑むことが確定した段階で、ぼくはエールフランスの往復航空券を取っていた。凱旋門賞1920年に創設されたレースだが、3連覇を達成した馬はいまだかつて存在しない。あらゆるスポーツの愛好者がそうであると思うのだが、これを逃すと死ぬまで拝むことができないであろう瞬間は、何が何でもこの目で見届けなければ気が済まない、という類の心情が存在する。グラップラー刃牙・外伝の斗羽と猪狩の戦いにおいて、勤続35年・無遅刻無欠勤のサラリーマンは午後の会議をなぜブッチ切ったのか? ぼくには彼の気持ちがよくわかる。エネイブルの凱旋門賞3連覇というのは、たとえば往年のプロレスファンにおける馬場と猪木の試合に相当するものなのだ、というのは言い過ぎだろうか。

 ともあれ凱旋門賞本番を控え、パドックでエネイブルの出待ちをする間、「え? 本当にこれから目の前にエネイブル出てくんの? ほんとに? 嘘じゃない? 騙されてない? 大丈夫……?」とかいうよく分からない心情になっていたぼくは、いよいよエネイブル(実物)が目の前へ登場するに至り、もはや我を失うほど(無言状態で)興奮しきっていたのだった。周囲の客はというと「タケちゃんマン落ち着いてる」「ね、タケちゃんマン落ち着いてるね(※タケちゃんマンとは日本からの遠征馬であるフィエールマンの愛称と思われる。『T』の文字を象ったメンコをつけているからだ)」という会話を交わす、競馬が好きなんだろうなという風情の日本人(たぶん)夫妻、「オーウオウオウ頑張れニッポン!」みたいなクソ寒いノリを晒す若い日本人男の集団、すんげぇ酔っ払ってフランキーの応援ソング? チャント? じみたものをバカデカい大声で合唱するスーツ姿の若い英国人集団などであり、そんななかぼくは生のエネイブルを至近で眺めつつ幾度とない絶頂を味わっているといった次第だった。ちなみにフランキーの応援ソング? は「オーウオウオウ、フランキー、オーゥフランキーデットー」みたいな節回しである。若めの英国人観客がこれを口にしているところを何度か見かけた。フランキーは英国人観客に大変人気である。彼がレースに勝ったときなど、英国人観客の歓声が凄まじい。

 さておき生で見たエネイブルは、とてもケツがデカかった。ウマ娘でいうと(?)バッキバキにケツが割れててケツえくぼができるタイプの女であった。そしてとても顔が整っている。美人であるといって差し支えないと思った。つまり彼女は美人で、バッキバキにケツが割れててケツえくぼができるタイプの女であったのだ。

 パドックの内側の関係者ゾーン。これからエネイブルに跨がるフランキーを取り囲むプレスの数がえげつない。尋常ならざる人だかりである。一方、ゴドルフィンの持ち馬、すなわちドバイ首長の持ち馬であるガイヤース陣営の周囲には凄まじい数の高級スーツアラブ人集団がひしめいていた。お前たちは見たことがあるか? 本物の石油王の迫力を。俺はこのとき本物の石油王の迫力を見た。お前たちは知っているか? 石油王じみたアラブの男たちは、高級スーツでバシッと決めると香(かぐわ)しいまでの色気を纏ったジェントルメンに変貌する。俺はこのとき本物の石油王の色気を見た。

 そんな脱線はさておき、パドック最後の周回である。この周回でジョッキーたちは各々自分たちの馬の背に跨がり、レースが行われる芝コースへ向かってゆく。フランキーが乗ったエネイブルが通り過ぎてゆくと、ぼくの背後に陣取っていた酔っ払い英国人集団が「ゴー! フランキー! ゴー!」とまたしてもバカデカい声で叫びだした。するとエネイブルが首を振って暴れ出したではないか。観客の声に驚いたのではないかと推察される。馬は実に繊細な生き物だからだ。大きな音などには、とりわけ弱い。これはマズいと思ったのか、フランキーがエネイブルより一旦下馬した。思えばこの時点で、エネイブル自身、普段とは何かが違うと察知していたのではないだろうかと思うが、ぼくは馬ではないので、馬の正確な気持ちはわからない。ともあれ、観客たちが抱くエネイブル3連覇への期待というのは筆舌に尽くしがたいレベルであったといまでは思う。かくいうぼくも、そうした観客のひとりだった。

 それからレースが始まるまでの記憶があまりない。いや、最後の直線に至るまでの記憶もあやふやだ。ゲートが開いた瞬間の歓声が凄まじかったことだけは鮮明に記憶している。海外の競馬というのは、パドックからコースへ出ると各馬サッと返し馬を済ませてしまい、とっととゲートへ入ってしまうことが多い。日本と違い発走前のファンファーレなどは存在しない。だから必然的に、ファンファーレに合わせた観客の手拍子などという品性下劣な行為も存在しない(ぼくはあれが大嫌いだ)。レースが発走するまでの間は、実に静かなものである。それが一転、ゲートが開いた瞬間凄まじいまでの歓声が発生する。言語の違いに伴う発声の違いからだろうか。「ワァァーーー!」というより「ヴォオオーーー!」というような、地を低く這い込むような歓声である。

 逃げ馬のガイヤースがサッと先手を取るかと思いきや、ヨーロッパ競馬のスローペースに呑まれたのであろう日本のフィエールマンが間抜けにも先団へ躍り出たところは覚えている。日本調教馬はゲートからの出脚がヨーロッパの馬と比較して速いため、遠征競馬では得てしてこういう事態が発生する(今年2019年3月のドバイシーマクラシック(G1)におけるレイデオロの惨敗などが、記憶として新しい)。そしてこの時点でフィエールマンは終わったと思った。このタフな馬場での無謀な先行策はすなわち死だと思ったからだ。スタミナをいたずらに消耗し、後方待機の馬に差されて沈むのがオチだと直観的に感じたのである。と、ここで気づいた。逃げ馬のガイヤースの馬券を持っている。しかも対抗の印まで打っている。バカか俺は。何で「先行は死」という重要なファクターに今さら気づいたのだ。こういうことを繰り返しているからいつまで経っても馬券で負け続けるのではないだろうか? 実にバカだ。

 さてエネイブルは……先行集団で前3頭の馬を虎視眈々と狙っている。フランキーは勝ちに行っているのだ。あとから考えれば「勝ちを急いだ」といえなくもない戦術だったが、しかしフランキーは後顧の憂いを断つことで自ら勝ちに行った。後ろに手控えて前の馬を捉え損なうよりは自分から動いてレースを作る、実に本命馬らしい騎乗である。ぼくのテンションは爆上がりした。ぼくの前に立ち、双眼鏡にかぶりついてレースを観ている英国人のオッチャンのテンションもついでに爆上がの様相を見せている。「カモン、フランキー……カモン!」オッチャンが力強い声で言う。ぼくも心のなかで呟いた「カモン、フランキー……カモン!」と。

 馬群がフォルスストレートを過ぎてゆき、レースは勝負所へ差し掛かる。残燃料を使い果たしたフィエールマンが逆噴射もかくやという勢いで後続馬群へ沈んでいった。菊花賞および天皇賞春という日本最長距離のG1を2つ取った馬でもスタミナが持たないか……! と、ちょっとした衝撃を受ける。ここからレースは壮絶な消耗戦へともつれ込む。先頭のガイヤースの手応えが怪しくなり、代わりに2番手のマジカルが進出を開始。3番手から2番手に上がったエネイブルはフランキーの手綱がかなり激しく動いている。馬場の外目からはエネイブルの対抗格であるフランスダービー馬ソットサスと、どこからワープしてきたのか、先ほどまで馬群後方にいたはずのアイルランドの3歳牡馬ジャパンが伸びてくる。しかし、上位争いを演じるどの馬もジリジリとしか差し脚が伸びていないように思われた。やはり馬場が死ぬほどタフなのである。全ての馬が馬場に切れ味を殺されているといった具合の、泥仕合といってもよい競馬だった。

 だがここからがエネイブルの真骨頂だ。馬場に脚を取られて伸びあぐねる各馬をよそに、鞭が入るなりいつも通りの急加速を見せる。あとは加速にまかせて一瞬で後続を置き去りにして3連覇達成……そのはずであった。そのとき、ぼくを含む観客たちの視界が何かおかしなものを捉えている。後ろから何かきてるぞ? え? 嘘でしょ? え? 何で? お前重たい馬場苦手なんじゃなかったの? お前何戦もして全くといっていいほどエネイブルに歯が立たなかったじゃん。何で? え? 何で……? おそらく、あの場にいた競馬ファンは皆同じことを思ったのではなかろうか。

 エネイブルに置き去りにされたソットサスとジャパンの更に外目……先刻まで馬群の中で藻掻いていたはずのヴァルトガイストが、信じられない脚で急加速していた。その勢いたるや凄まじく、既にセーフティリードを確保しつつあったエネイブルさえ呑み込まんとするほどであった。ぼくは思わず叫んだ。「残せ……残せ残せ残せ残せ残せッ!!!」ぼくの前に立つ英国人のオッチャンも叫んでいる。「カモーーーーーーーン!!!!!!! フランキーーーーーーーー!!!!!!! カモォォォォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッ!!!!!!! アッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!! ア"ッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」  しかしというべきか、残念ながらというべきか、ぼくとオッチャンの願いも空しく、残り50m地点でヴァルトガイストがエネイブルを交わし去り先頭へ立った。そしてオッチャンが頭を抱えたまま無言になるのとほぼ同じタイミングで、ヴァルトガイストがエネイブルとの着差をみるみる広げ、ゴール板を1着で通過した。


 

 最強馬エネイブル敗北の瞬間である。ヴァルトガイストに跨がるピエール・シャルル・ブドー(来日したとき減量できず仕方なくブーツを脱ぎ靴下で騎乗していたところ、JRAにメチャクチャ怒られたあのブドーである)は「大物、喰ったったで!」とばかりに勝ち名乗りの手を高々と挙げた。そして英国人のオッチャンはといえば、まるでお葬式のようなツラでその場に立ちすくんだまま魂が抜けたといった風情で呆けていた。

 ゴール板を過ぎた馬たちが脚をバタつかせながら急減速してゆく。どの馬もヘトヘトである様子からして、凄まじいまでの消耗戦であったことが見て取れた。日本遠征馬の大将格たるG1・2勝馬のフィエールマンは、ブービーから更に大きく離された位置で、何とトボトボ歩きながらゴール板を通過していた。彼の持ち味は鋭く伸びる一瞬の切れ味と素軽さだ。反面、タフな路盤でも苦にせず最後まで伸びるような重戦車タイプではまったくない。やはりとんでもなくタフなレースであったのである。先行しながら2着を確保したエネイブルも展開が向かない中で連対をキッチリ確保しており負けて強しといえるが、しかし負けは負けである。彼女の3連覇は伏兵によって阻まれ、連勝は12でストップした。それが現実だ。

 エネイブルが先頭に立った瞬間スタンドから沸き上がった大歓声と、そしてエネイブルが差し切られた瞬間の「え?」という妙な空気との落差を、ぼくはおそらく死ぬまでに忘れることがないと思う。世紀の大番狂わせとはこのことだ。「競馬に絶対はない」というのはよく知られた格言であるが、しかしこんなこともあるのかと思わせられる瞬間だった。というのも、エネイブルがあそこまで着差を拡げられて負ける光景などまず想像不可能であったのと、それまでのヴァルトガイストはエネイブルと対戦して全敗どころか肉薄するシーンさえ見せていなかったからである。つまり両者の勝負付けは既に済んでいるものと見なされていたのだ。それがゆえ、エネイブルと未対戦である3歳馬のソットサスやジャパンに対抗馬として票が集まっていたわけだったし、だからしてヴァルトガイストの人気はソットサスやジャパンらより下であった。そして何よりヴァルトガイストは5歳の古馬である。こんな伸びしろを残しているとは到底思えない年齢であるから、番狂わせぶりに拍車がかかるというものだろう。

 おそらくは地元の観客と思われる、フランス語を喋る観客の集団が大いに沸き立っていた。そう、ヴァルトガイストは地元フランスの馬である。反面、周囲にいる英語を話す観客たちの顔は大なり小なり沈んでいるように思われた。文字通り明暗が分かれたかたちである。まるで英仏対抗戦……いや、英仏戦争だなぁとぼくは思った。バリードイル陣営を擁するアイルランドも、まぁアイルランド島自体がブリテン島にとってのサラブレッドの生産拠点だと思えば、英国側陣営としてカウントしてもいいだろう。となればこれはまさしく英仏戦争だと、アイルランド人が聞いたらカンカンに怒りそうなことを考えつつぼんやりと表彰式を眺めて過ごした。そんな戦いにあって日本とチェコからの遠征馬は完全に蚊帳の外であり、上位争いにすら参加できていない有様である。日本が意気揚々と送り出したニューマーケット滞在組の2頭、有馬記念馬ブラストワンピースと菊花賞天皇賞馬のフィエールマンは無様なことに下から数えてワンツーフィニッシュであり、特にフィエールマンなんかは大差のシンガリ負けである。あまりに酷い負けっぷりだ。

 この辺から(エネイブル敗戦のショックで)記憶が曖昧ではあるのだが、表彰式ではラ・マルセイエーズが爆音で流れていたように思う(いや、勝ち馬の国の国歌が流れるはずなので、流れていたはずだ)。かの英国最強牝馬をブッ倒したフランスの馬の偉業を、フランス人たちはラ・マルセイエーズでもって讃えるのだ。凱旋門賞とはことほど左様に(英仏だけというのは言い過ぎにしても)ヨーロッパの芝馬たちの戦いであり、そこにスピード競馬を得意とする日本馬が付け入る隙はいまのところないように思われた。それでもなお毎年のように日本馬が無謀ともとれる短期遠征を続けるのは、惜しくも2着に終わったエルコンドルパサーが残した呪いであり、失格処分に終わったディープインパクトが残した呪いであり、また同じく惜しくも2着に終わったナカヤマフェスタオルフェーヴルが残した呪いであるように思われる。「いいじゃん、長期遠征でもいいから英チャンピオンステークスで欧州芝2000mのG1勝った方が種牡馬価値高まらない? 凱旋門賞にこだわる意味ってなくない? 俺間違ったこといってるかなぁ……」なんてことを思った段階で、もうエネイブルのようなヨーロッパの競走馬が現れない限り、凱旋門賞を現地観戦に行くことなどないのだろうな……そんなことを考えた。

 本当であれば日本の最強牝馬アーモンドアイも、今年の凱旋門賞に出走するはずであったのだ。しかし、陣営は回避という選択をした。結果論だが、正しい判断だといわざるを得ないだろう。ブラストワンピース、フィエールマンらとともに最下位争いを演じているアーモンドアイなど絶対に見たくはないからである。

 帰り道、ポルト・マイヨの駅に向かうバスの中で、フランス人の馬券オヤジ2人組がディープインパクトオルフェーヴルについて何ごとかを話し合っているのを耳にした。フランス語がわからないので、彼らが何を話していたのかはわからない。窓の外のブローニュの森では、街娼と思わしき格好をした者たちが3人ほどたむろしている様が視認できた。風景や街並みは美しいけれど、不穏な部分がそこかしこに覗く国だなぁとぼくは思った。ちなみに、エネイブルは2020年も現役を続行するそうである。

(おわり)

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(おまけ:その後)

*1:ちなみにフランキーもムーアもスミヨンもビュイックも、皆2019年秋シーズンは短期免許で日本に長期滞在し騎乗するらしい。毎日がワールドスーパージョッキーズスリーズである。それにしても、たった200円の入場料さえ払えば日本の競馬場で世界で十本の指に入るようなトップ騎手たちの共演が毎週末見放題というのはとんでもないことだ。ぼくが知る限りこんなスポーツ競技は他に一切存在しない。喩えるなら、会社や学校帰りに東京ドームや神宮球場の外野席に寄ったらメジャーリーガーが毎日ガチンコで野球をやっているのが見られるようなもんである。凄まじいことだ。

【ネタバレ有り】『天気の子』のこと

▼『天気の子』を観た。直球のセカイ系でありつつ「最初からこの世界は狂っている」と断言し、世界の在りようを変えてしまう行為について「好きな子と一緒にいるためならそれでいい」と言い切らせるパワープレイが、自分でもびっくりするくらい心に響いた。「そこまで断言していいんだ」と思いつつ、「それでいい」と思わせるようなパワーがあり、2019年の「いま」ぼくが観たかったのはこういう話であったのかと、いささか瞠目するような心地を味わった。

▼2019年の「いま」ぼくが求めているのは個人のパーソナルな部分についての話や、目の前にいる人との関係性にフォーカスした話である。「最初からこの世界は狂っている」というのは現実においてもまさにその通りなわけで、じゃあそんな世界で何を寄る辺にして生きてゆけばよいのかというのは、きわめて普遍的な問いに違いない。そこにおいて確かなものは、自分自身の内面にあるパーソナルな領域であったり、目の前にいる人との関係性であったり、そういう自分の認識が届く手近な領域にあるのではないか。とりわけここ数年、「確実にそこに存在し、寄る辺となるような手触りがある」と感じられる領域が、どんどん内側に閉じていっているような実感が強まっている(あくまでぼくの中で)。そういうわけで、世の中の不条理さ、予測のできなさ、わけのわからなさ、ままならなさを「そういうもんだ」と位置づけつつ、ミクロな位相に存在するパーソナルな領域に対する自問であったり、目の前にいる人との向き合い方であったり、そういうところに軸足を置く物語のバランス感覚がぼくの中でいまとても「響く」ものになっている。ちなみに過日プレイした『VA-11 Hall-A』へ惹かれた主な理由は、この辺の認識と密接に関わっているのだが、これはまた別の話。

▼そんな中、『天気の子』は「君と一緒にいられるなら、天気がずっと狂ったままになっても構わない」という旨の台詞を主人公に言い切らせる。これは直球のセカイ系だからこそ可能な類の断言に相違なく、「セカイ系、懐かしい言葉すねぇ……」なんて舐めたことを思っていたぼくは大馬鹿も大馬鹿というか、2019年の現在だからこそセカイ系が響くのだという思考には全然至れておらず、まったくもって恥ずかしい。壊れた世界の中で、個人のパーソナルな領域や目の前の人との関係性しか寄る辺のない状況がいま現在のぼくが置かれた現実であるのだとしたら、セカイ系以上に響くジャンルなんてあるはずないはずじゃないか。何せセカイ系とは「きみとぼくの関係性が社会を抜きにして世界の運命と直結する」ジャンルである。そうしたジャンルを土台として、「きみが大事だ。世界なんてどうでもいい」と力強く言い切る作品が、ぼくにとって響かないはずがない。そんなふうに思ったりした。

▼そういうわけで、終盤の展開の鮮烈さたるや凄まじいものがあったようにぼくは思う。帆高くんにああまで「どうでもいい」とはっきりと言い切られてしまうと、観客としてはぐうの音も出やしない。何にせよ力強い。強烈なパワープレイである。好きな子と一緒にいられるなら世界のことなんてどうでもいい、とまで言い切られたら観客であるぼくたちが言うべきことは何もない。2019年の現在においてぼくが本当に欲しかったのはああいった類の力強い言葉である。愛とか恋とか、そういったパーソナルなあれこれに根ざした目の前の人との関係性を世界の運命よりも上位に取る。ついでに再び世界が壊れて狂ったものになってしまってもそんなことはどうでもいい。そうした宣言を待ち焦がれていたのだと思う。「帆高くん陽菜のこと好きだもんな。あんたの選択は間違っているかもしれないが実に正しい」なんて、そういうふうに受け取るのが実直な鑑賞態度なのではないかと思ったりした。

▼劇場アニメ作品というのは構想を練って企画を立てて実際に動き出してお話を作って形にして、という一連のプロセスを経て世に出るまで凄まじいタイムラグがあるはずなのに、封切られたタイミングでバチっと「いま」にハマってるのはあまりにすごくないか? と思った。聞けば『君の名は。』が公開中のタイミングでもう構想等々動き出していたらしい。そこから『天気の子』封切りまでの間、わずか3年である。しかし同時に、3年というのは世の中のあれこれが変化するには充分な時間だ。3年先を見通した上での構想でなければこうはならないだろうというのがぼくの中での偽らざる感想であり、素直にすげぇなと思ったりした。

▼クライマックスに流れるグランドエスケープの使い方、というか曲のつくりがメチャクチャに良い。イントロからノンビートの展開が続いて見せ場のシーンに入り、一回キックが入ったのち、ここぞというところでキックと入れ替わるようにしてコーラスとクラップがグワッと同時に入ってきて、更にそこへキックが2/4→4/4の拍子でドカンと戻ってくるのだから気持ちが盛り上がらないわけがない。いわばドロップである。何だかクラブミュージックっぽい発想だなとぼくは思った。

▼挿入歌でいえば、廃墟で刑事に囲まれるシーンで「愛にできることはまだあるかい」などとしっとり歌い上げる曲と暴力アンド暴力アンド公務執行妨害、の画の取り合わせが何だか妙でちょっと笑ってしまいそうになった。本編において歌われた「愛にできることはまだあるかい」の回答のひとつが「タックル」そして「公務執行妨害」であることは疑う余地のない事実である。何でこんな書き方をしているかというと、あそこの挿入歌の使い方がいわゆる(悪い意味での)邦画っぽさに他ならないと感じたからで、ああいうのがぼくは好きではない。少なからず好みの問題ではあるにせよ。

平泉成役の平泉成、みたいなアレは何だったんだ。いいのかあれ。ちなみに花澤綾音は「やりすぎ」だと思う。小ネタにしてもちょっとオタクの内輪受けっぽさが小っ恥ずかしかった。

倍賞千恵子の芝居はそもそも別格というか、素人目に見ても格が違うという他なく、圧巻である。語られる言葉ひとつひとつに一筆書きできない情感が篭もっており、身震いがする。すごい。

▼夏美の書いてたエントリーシートの中身がひどく凡庸な文面だったのが、何か異様な質感を伴っていて良かった。ちなみに夏美のキャラそのものについて、あれは何か強靱な「祈り」や「好(ハオ)」のかたちである。他者の「祈り」や「好(ハオ)」は最大限尊重しなければならない。だから夏美のキャラについてリアリティだの男性の願望だの何だの言う奴の言葉は一切合切耳を傾ける必要がない。「祈り」や「好(ハオ)」を表現することは自由になされるべきだからである。

▼作中で帆高くんが取った行動により変わってしまった「世界の形」として終盤水没した東京のランドスケープがこれでもかと描かれるわけだけれど、この作品においては世界=東京でいいのか? そういう範囲におけるセカイ系って考え方でいいのかな? と思いつつ、破壊された東京の景観というのはとりもなおさず『言の葉の庭』で描かれた新宿の景観であったり、はたまた作中で『君の名は。』の瀧と三葉が暮らしを営んでいた街並みに他ならない事実を忘れてはならない。これを水没させたというのは、一連の新海ユニバース的にかなりデカい破壊の描かれ方なんじゃなかろうか。

▼『パト2』好きはこの作品を観た方が良いのではないかと思う。真夏に雪が降る一連のシークエンスにおいて、その筋のオタク的に思い起こすのはやはり『パト2』の戒厳令下の東京の景色であったりするわけで、それこそ羽田の国内線案内表示が一斉に〈欠航〉へ差し替わるカットなんかは『パト2』に人生を狂わされた者的に絶頂ものである。何の話?

▼『ボーン』シリーズ好きはこの作品を観た方が良いのではないかと思う。いよいよ何の話かという感じであるが、『ボーン』シリーズの醍醐味といえば市街地の地形を利用した警察車輛からの逃走シーンである。『天気の子』終盤では、『ボーン・アイデンティティ』冒頭におけるカーチェイスシーンさながらの逃走劇が繰り広げられる。階段をバイクで駆け下りるシーンなんかまさに『ボーン』シリーズまんまである。何の話?

▼どうでもいいオタク語りしていい?(いいよ) 天気の子に出てくる馬勝たせるやつ、ちょっと晴れた程度で芝の含水率変わらないし不良馬場のままだから意味なくね? というのはあるものの理由付けは可能で、雨粒が身体に当たることそのものを極度に嫌がる馬というのはいるっちゃいる。そういう意味では効果があるのかもしれない。ちなみにあそこに出てきた競馬場は東京競馬場。東京9レースの飛鳥特別というレースは実在せず、飛鳥とつく実在のレース名といえば京都競馬場の飛鳥ステークスで、特別戦のレース名はそもそもその競馬場がある土地に由来したものが多いためそこだけディティール端折ったな、みたいなのはあった。何の話?

▼ちなみに自分の贔屓の馬(「行け! そのまま!」と言っていたから逃げ馬なのだろう)を勝たせようとしたおじさんの依頼件名は、ぼくの動体視力によればおそらく「日本ダービーの雪辱を!」なので(よく見るとスクロールしているカットにそれっぽい件名がある)、例の雨を嫌がる馬は日本ダービーで期待されていながら重馬場に泣いて敗北した馬に相違なく、じゃあなんでそんな馬が六月の東京開催の特別戦に出てるんだよ、普通そんなローテ組まねぇよ、という話になる。その理由として唯一考えられるのは、当該馬は日本ダービー後に一年以上の休養を挟んで自己条件のレースに出てきたという筋立てで、要は一年前のダービーで負け、故障か何かで長期休養を余儀なくされた悲運の馬があのおじさんの勝たせようとした馬なのだろうということになる。それが陽菜の力を借りて一年以上ぶりの勝利をもぎ取ったのである。実に良い話じゃないか。何の話?

▼ちなみにバルト9の深夜上映会で2回続けて観たところ、1回目で受けたはずの鮮烈な印象が2回目で見事に掻き消えてしまい、気持ちがサーッと退いていったということがあって、ちょっと興味深かった。あれは画の力に対して目が慣れてしまったことが理由であり、結局のところ画の力でグイグイ引っ張るみたいなところがこの映画の良さであり、そこに目が慣れてしまうと果たして残るものは何だろうか、みたいな自問はぼくのなかであった。答えはここに書くつもりはない。でも良い映画である。少なくともぼくは「喰らった」。それだけは事実である。

▼冒頭で陽菜が廃ビルの前に立つカット、パチンコ屋の「P」「A」「C」「H」「I」「N」「K」「O」の電飾が上2文字分見切れて「C」「H」「I」「N」「K」「O」になっていたのはわざとだったのだろうか。わざとじゃないかとぼくは思う。ちんこ(キャッキャ)。

▼エンドクレジットのアニメーションが良かった。主要なキャスト、スタッフのクレジットのバックで本編を抽象化したアニメーションが流れるやつ。ああいうのが好き。ますます『ボーン』シリーズじゃん。何の話?

▼あと、この映画をもって「セカイ系が終わった」なんて文言を見かけることが多いわけだけれど、半分ネタであるにしても君たち何かを終わらせるの好きだねという他なく、全然終わってないし終わるわけがないとぼくは思っている。優れた先行作品の存在は、後続作品が書かれない理由にはなりえないからだ。

【微ネタバレ有り】実写版『累-かさね-』と『響-HIBIKI-』のこと

 

▼というわけで観た。折しも両作ともある表現分野における「天才」を描いた映画であり、また漫画原作の映画であり、タイトルは主人公の名前1文字であり、そして公開週に至ってはわずか1週差である。両作を比較する理由があるとすればその4点しかないのであるが、しかしこうも共通項の多い2作を観てしまうと比較したくなってくるものである。

▼淵累は天才舞台女優であり、鮎喰響は天才小説家である。そういうわけで、前述の通り両作は「天才」を主人公に据えた映画という点で共通項を持つ作品といえるのだが、「天才」の描き方を巡る描写において著しく異なる点が1つある。それは「天才」である主人公のアウトプットを観客へ向けて実際に見せたか否かの違いであって、結論からいうと『累-かさね-』は(丹沢ニナの顔をした)淵累による天才的芝居を実際に見せ、『響-HIBIKI-』は鮎喰響の書いた『お伽の庭』なる傑作小説を観客へ向けて見せなかった。

▼これは演劇を題材にしているか小説を題材にしているかの違いによるところがまずもって大きく、というのも映画において天才役者を描くのであれば天才が演じる芝居を直接描写することから逃げられるはずもないのは必然であって(なぜなら(丹沢ニナの顔をした)淵累を演じているのは本物の役者なのだ)、対して映画において天才小説家を描くのであれば天才が書いた小説を直接描写する必要性などどこにもない。周りの登場人物たちが「鮎喰響……彼女は何て凄い小説を書くんだ……」と驚いてさえいれば、天才小説家・鮎喰響の天才ぶりを描くことは可能だ。むしろ映画であるのだから彼女が書いた小説の本文を観客に読ませる必要は一切ないといっていい。原作の漫画とて同じ話だ。

▼そんなこんなで『累-かさね-』は(丹沢ニナの顔をした)淵累の生み出すアウトプットの凄まじさをストレートにそのまま役者の芝居を用いて観客に見せるが、『響-HIBIKI-』においては鮎喰響の生み出すアウトプットはある種間接的にしか描かれず、その小説の内実が観客に対し示されることはない。そうした比較観点において、『累-かさね-』という映画は相当挑戦的なことをやっているのはいうまでもない。あの映画は淵累の天才舞台女優ぶりと真っ向から対峙した、相当やべぇ映画なのである。

▼とはいえ、上述の比較観点というのは『響-HIBIKI-』にとって著しく不利な比較観点というほかなく、というのも『響-HIBIKI-』の主人公・鮎喰響が著した傑作小説『お伽の庭』は、映画のストーリーにおいてある種のマクガフィンとして機能するものだからだ。そもそもマクガフィンマクガフィンでしかないので、その内容の詳細を観客に向けて開示する必要はどこにもない(例えば『007スカイフォール』において、漏洩したSISの機密情報の詳細を観客に向けて説明する必要がどこにあるだろうか? 潜伏工作員のリストが漏れた、という事実さえあれば映画のストーリーは充分に成立するのである)。

▼だからというべきか何というべきか、『響-HIBIKI-』がちょっといびつなのは、「天才」を描く映画でありながら、件の「天才」のアウトプットである小説がマクガフィン(=ストーリーを駆動させる重要なアイテムであるが、その内実および詳細を観客に示さなくても困らないもの)として機能してしまっている点である。そんな構造をしているものだから、観客は作中において「天才」の生み出すアウトプットの凄まじさについてマクガフィン=『お伽の庭』を巡る描写の数々から「周りの作家や編集者がそんだけ言うならまぁ本当に天才なんだろうな」という判断を下さざるを得ないというわけだ。

▼無論、それ以外にも鮎喰響が何やら常人とは異なるステージに生きていることを示すエピソードは『お伽の庭』周りの話意外にも多数描写されているのであるが、しかし鮎喰響が「天才」であるという根拠の大元は、映画のストーリー上「『お伽の庭』が低迷する文学界に革命を起こしうるほどの傑作小説である」という事実にまつわる描写群に集約されるといってよく、観客にとって鮎喰響の「天才」っぷりを判断する根拠は、『お伽の庭』を読んで「すげぇ……何て小説を書くんだあの子は……」となっている周辺人物の反応以外にないのである。

▼したがって、マクガフィンたる『お伽の庭』の内容はそれこそ観客に向けて徹底的に秘されるべきだったとぼくは考える。だって周辺人物の反応以外に『お伽の庭』が傑作中の傑作であることを判断するための明確な根拠はないのであるし、だとしたら中途半端に『お伽の庭』の内容を開示するメリットはそれほどない。『お伽の庭』が大したことなさそうな内容であったらそれこそ興ざめであるといえよう。

▼上述の話に沿っていえば、1点メチャクチャ気に入らない描写がある。原稿段階の『お伽の庭』を読んだ編集者が感想として「どこか懐かしい」的なワードを繰り出すくだりだ。ぼくはあのセリフに怒っている。のちに芥川賞直木賞のダブル受賞という快挙を成し遂げ、低迷する文学界に革命をもたらすほどの傑作を読んだ感想が「どこか懐かしい」って何なんだ? 純文学が扱うものごとはそれこそ多岐に渡るわけだけれど、それにしても「どこか懐かしい」はないだろう。『お伽の庭』は鮎喰響なる天才小説家を作中において「天才」たらしめるマクガフィンであるのだから、当のマクガフィンを安いものにするようなセリフが序盤いきなりあるのは、ちょっと不用意にすぎないだろうか。

▼「懐かしい」という感想を抱かせる小説が文学界を変えるほどの純文学小説であるとはどうしても思えない。つまりは上述のセリフが『お伽の庭』が文学史にその名を刻む大傑作であるという説得力を損なっているとぼくは考える。なぜなら、「懐かしい」というのは読み手が持つ個別の体験・記憶に依拠した感想に他ならず、いってみれば「あるある、そういうのあるよね〜〜〜」的な「あるあるネタ」が抱かせる「あるある」という感想と質的にそう変わらないからである。「あるあるネタ」は最大公約数的な、いわば複数の人々の体験・記憶から取り出すことのできる最大の類似点を切り取ったネタであり、もっといえば受け手各々の異なる体験・記憶の中から見出すことのできる「落としどころ」を提示するネタであるとぼくは思う。「懐かしい」という感想も同じ話だ(それこそ「懐かしのアニメTop100」的な特番が得てして最大公約数的な「落としどころ」的なタイトルばかりを上位に取り上げるのを考えれば、まぁそうだろうなという気分になるはずだ)。最大公約数的な「落としどころ」を描いた作品が果たして文学史にその名を刻む大傑作たりえるだろうか? ぼくはそう思わない。

▼何を細かいことをグチグチと、と思う向きもあるかもしれないが、『お伽の庭』がどんな内容の小説なのか観客はあのセリフが含まれるシーンにおいて初めて知るわけであって、ちょっと不用意な描写だなぁという感想が拭えない。鮎喰響なる天才小説家が天才であるのは『お伽の庭』という大傑作を書けるほどの才能を有しているからであって、であればこそ『お伽の庭』に言及するセリフ(それも作中初めてその内容に触れるセリフ)についてはもっと慎重であって欲しかった。ぼくはそう思う。

▼と、いうわけで、雰囲気から察していただければありがたいが、『累-かさね-』と『響-HIBIKI-』なら『累-かさね-』の方を断然オススメする。ドラマっぽい安いセットの内装や『サロメ』のあらあすじ説明パートの野暮ったさ、CGの安さなどは気になるものの、話の本質に関わる部分かというとそうでもないので大した問題にはなりえない。繰り返しになるが、あの映画は淵累の天才舞台女優ぶりと真っ向から対峙した、相当やべぇ映画なのである。映画館でやっているうちに観に行くべし。

【ネタバレ有り】映画版『ペンギン・ハイウェイ』のこと②

前回記事の続き。感想後半である。原作者の森見登美彦氏がこの作品の着想元であると明言しているスタニスワフ・レムの『ソラリス』を読み、3回目、そして4回目の鑑賞へ臨んだ(もっとも、4回目の鑑賞は前回記事の事実誤認を確認するのが主目的であったが、別の発見もあった。後述する)。

▼前回からの繰り返しになるが、以下はすべて個人的な感想にすぎないので、映画評とかそういうものでは全くない。そういうのを期待されると非常に困るので、そのつもりで読んで欲しい。それと、以下は9割方ぼく個人の記憶に基づいて書かれているので、もし事実と異なることを言っているのであれば指摘が欲しい。今回もそんな具合だ。

▼感想へ入る前に1点だけ。勘違いしてはならないのが、スタニスワフ・レムの『ソラリス』はあくまで作品の核となるイメージを原作者の森見氏へ提供した本であるにすぎず、原作小説の『ペンギン・ハイウェイ』は『ソラリス』のオマージュを主目的として作られた作品では決してない、という点である。着想元はどこまでいっても着想元であって、それ以外の何ものでもない。だから、お姉さん=「幽体」(ハリー)では決してないし、「海」=「ソラリスの海」でもないとぼくは思う。この映画を観るにあたって、『ソラリス』は解釈の補助線程度に扱われるべきだ。もちろん「海」は「ソラリスの海」に近しい何かに相違なく、「海」≒「ソラリスの海」ではあるのだけれど、=と≒ではその意味合いに無視しがたい開きある。そのことを念頭に置いて考えたい(特定の何かを非難する意図は一切ないことをここに誓うが、この辺りを切り分ける観点は重要だ。着想元はどこまでいっても着想元という観点は、作品をひとつの独立した作品として尊重するという意味においてきわめて重要だと思うからだ。無論、多読家である森見氏が著した原作であるのだから『ソラリス』を含む膨大な量の外部参照文献が『ペンギン・ハイウェイ』という作品のベースになっているのは疑う余地もない話だが、それでもなお、という類の話である)。

▼アマチュアの同人作家であるぼくがいうのもおこがましい話だが(本当におこがましい話だ)、ある小説を読んでいるとき、作中で描かれるあれこれからパパッと連想がつながって「このイメージに沿っていけば、何か1本書けるかもしれない」もしくは「この作品を読んで心動かされた部分を膨らませれば、何か1本書けるかもしれない」と思う瞬間が時々ある(小説を何本も書いたことのある人であれば、この感覚はある程度広く共有できるのではないかとぼくは思う)。『ソラリス』を読み感銘を受けた森見氏に訪れた感覚も、きっとそういうものであったのだろうと推察する。『ペンギン・ハイウェイ』を読み解く際、『ソラリス』の内容を援用するのであれば、こうした作家の感覚を理解している必要がある。下記の森見氏へのインタビュー記事を読み、その確信を新たにした。

また、「ペンギン・ハイウェイ」単体でいえば「ソラリス」のイメージに凄く影響されていると思います。小説全体のイメージでいえば、何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない、というような。ソラリスという星が、主人公の過去の死んだ恋人を作って宇宙船に送り込んでくるんだけど、その恋人も自分がどうして作られたのかよく分からずに最終的には消えてしまう。そういった「ソラリス」の骨格のようなものは、「ペンギン・ハイウェイ」の形を固めていくのに使っています。

▼それにしても本作、梅田となんばのTOHOシネマズにて夕方〜夜の回での上映が終わる公開4週目段階ではスクリーンの座席が取りにくいほどの盛況ぶりであった。ターゲットの上映日程において良席を確保しようと思うと、ネット予約開始日に即チケットを確保しなければならないほどであった。もとより1日の上映回数の少ないタイトルではあり、上映館もそう多くない方だとは思うが、口コミで客足が増えていたり、ぼくのようなリピーターがいたり、封切り1カ月に届くかどうかのタイミングでそのような雰囲気がなおも漂い続けていたのは、作品にとって実に幸せなことだったとぼくは思う。

▼ちなみに3回目をTOHOシネマズ梅田で観たときは満席でかつ客のノリがメチャクチャ良く、冒頭の待合室のシーンにおける「この人はぼくが親しくお付き合いしている…」のセリフ、しかも「親しくお付き合いしている」の箇所でクスクス笑いが起きていたのが本当に良かった。

▼また観たい、と思える作品が映画館で上映されているのは素晴らしいことだ。映画というものは映画館での上映が打ち切られたその瞬間、価値の一部を失ってしまう。一般的な家庭では到底ありえないサイズのスクリーン、大きな音量、臨場感のある音響、暗転した照明、そうした映画のためだけに用意された環境をフルに動員した鑑賞体験というのは、自宅にシネコン設備と遜色ない巨大シアターを所有しているなどのレアケースを除いて、映画館でしか得ることのできない価値に相違ない。無論、映画館で観たところで、ホームシアターのスクリーンで観たところで、はたまた20インチ液晶テレビで観たところで、作品そのものの価値が損なわれることはありえない。だが1本の映画を構成する多種多様な価値のなかで、映画館でしか得ることのできない価値というのは、無視できない地位を占めているのではないかと個人的には思うところだ(例えば『ゼロ・ダーク・サーティ』のビンラディン邸強襲シークエンスは、映画館の環境において観ることで、はじめてその真価が発揮される類のものに相違なかった。何しろ家庭用テレビのデフォルト設定値で観ても、「暗すぎて」何が起こっているのか分からない)。

▼この『ペンギン・ハイウェイ』でいえば、海辺のカフェのブレーカーが落ち、室内が暗転するシークエンスなんかがその最たるものだろう。静寂を伴う暗闇のなか、窓から差し込む淡い月明かりにお姉さんの穏やかな顔が浮かび上がり、「アオヤマ君、怖い?」と一言。おそらくあのくだりは映画館で観るそれと家庭の20インチ液晶テレビで観るそれとでは、少々印象が異なって見えるのではないだろうか。暗転した客席の照明と、画面に映し出される暗闇の風合い。広い空間にあって少々飽和気味に聞こえるお姉さんの優しい声色。大スクリーンにあって視界一杯に展開されるお姉さんの表情……。それらすべてが一体となってはじめて、あの目の覚めるような美しいシーンが完成する。大袈裟なようだが、そのように思う(前述の『ゼロ・ダーク・サーティ』もそうだが、映画館のスクリーンは暗闇に覆われたシーンにとても強い)。

▼そういうわけだから、3回目、4回目とまた映画館で観ることができて、ぼくはとても嬉しかった。もう2回も観た映画をまた何度も観に行くことについて、当日が訪れるのを純粋に楽しみにしていたのだから驚きだ。こんな体験はなかなかできない。

▼余談ではあるが、オープニングクレジットにおいて伊藤計劃作品のアニメ化へ関わった主要人物の名前を目にしてしまった。1回目と2回目でなぜ気づかなかったのかという話ではあるが、それはそれとして、その人物の名前をトリガーとして3回目の鑑賞時は心が大いに乱れてしまった。118分の上映時間中、集中力は普段と比べて40〜50%程度は落ち込んでしまったように思う。正直な話、作中で確認したかったポイントはいくつもあったものの、あまり集中して観ることができなかったのは悲しい話に相違ない。もっと強い心を持ちたいと思った(伊藤計劃作品のアニメ化が酷い出来だったという事実は、やっぱり消えない傷となってぼくの心に残ったのだなと再認識した。「死人に口なし」を地で行く所業をなされたのだから、まぁ当然といえば当然の話だ)。

▼いささか楽しくない話はさておき、『ペンギン・ハイウェイ』の原作を読み、2回目を観、更には『ソラリス』を読み、そして3回目と4回目を観たところで、お姉さんという存在は結局謎のままだった。だが『ソラリス』を読んだいまなら、お姉さんを巡る謎を謎のままで終わらせる、その意図するところが何となくわかるような気がしている。先述の森見氏の言葉にあった「何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない」という『ソラリス』の骨格が深く関わっていることは、いうまでもない。

▼そもそもアオヤマ君にとってお姉さんは好奇心をひどく掻き立てられる謎めいた存在であるから、彼にとってお姉さんとは解くべき謎のひとつである(彼はいくつもの研究テーマを抱える「多忙」な人間なのだ)。そして彼にとって、お姉さんを巡る謎は多岐に渡る。お姉さんがペンギンやジャバウォックを出せることは解き明かすべき謎であるし、お姉さんのおっぱいになぜだか惹かれることも解き明かすべき謎であるし、お姉さんの顔立ちを見るとなぜだか嬉しい気持ちになってしまうことも解き明かすべき謎であるし……そういうわけで、アオヤマ君はお姉さんを巡る諸々の謎を解こうと奮闘する。まさに未知とのコンタクトだ(精通さえしていない(?)小学生の男の子が年上のお姉さんに憧れる理由なんて、そもそも当人にとっては謎でしかないだろう。そんな次第で(?)、アオヤマ君にとって年上のお姉さんはまさに未知の存在だ。アオヤマ君は、そうした未知の存在であるお姉さんと科学者的冷静さでもって対峙する。そうした彼の態度は、『ソラリス』において「海」や「幽体」の謎と科学者的冷静さで相対する科学者たちを彷彿とさせる。何という換骨奪胎ぶりだろう。惚れ惚れするほかない)。

そして、物語内においてお姉さん(とペンギンとジャバウォック、そして「海」)を巡る謎の大枠はアオヤマ君によって解き明かされる。お姉さんのおっぱいに惹かれる謎はアオヤマ君にとってまだ難しいのかもしれないが(ウチダ君はかなり真相に近しいところまで行き着いているように見受けられる。このおませさんめ)、お姉さんの顔立ちを見ると何だか嬉しい気持ちになってしまう謎の真相の一端に、アオヤマ君は最後辿り着くことができている。ここは映画版では直接描写されないので、是非とも原作の地の文を参照して欲しい。

▼アオヤマ君はお姉さんという謎めいた存在一生懸命研究し、その大枠の謎を解くことに成功した。だが「お姉さんは人間ではない」というアオヤマ君が導出した答えによって、お姉さんという存在を巡る「究極的な問い」が新たに現出した事実は注目に値するだろう。つまり、お姉さんは本当は何者で、どこからきて、なぜ生まれてきたのか、という問いである。お姉さんとの別離を経験したアオヤマ君が残りの人生を賭けて取り組んでゆく研究は、お姉さんを巡るこれら「究極的な問い」の答えを導き出し、彼女に再び会いに行くことに目的がある。

▼最後のモノローグで彼がいうところの「信念」を支える骨格は、それらのお姉さんを巡る「究極的な問い」にあるといっていい。未知の存在(=お姉さん)との完全なコンタクトは物語のラストにおいてもいまだ達成されていないのだ。だからアオヤマ君は物語が終わったその後も継続して未知とのコンタクトを試み続ける。すべてはお姉さんと再会し、今度こそ2人で電車に乗って海へ行き、「この頃のぼくを語る」ために……。

▼であればこそ、アオヤマ君にとってお姉さんが最後まで謎の存在であり続けることは物語上きわめて重要な意味を持つわけで、お姉さんがやっぱり謎のお姉さんのままであるというのは、「何か向こう側に謎めいたシステムがあって、それを一生懸命調べるんだけれど、究極的なところではそこに到達できない」という、森見氏が『ソラリス』について語った一文を想起させる(お姉さんなる謎の存在の向こう側に、何だかよくわからない「謎めいたシステム」があるのは疑う余地もない事実だ)。

▼より踏み込んだ部分まで言及すれば、ペンギン・ハイウェイ』最終盤におけるアオヤマ君のモノローグは、「幽体」に関する謎の大枠を解き明かし、「海」を巡る「究極的な問い」の一端に触れ、そして人智を越えた新たな謎に直面した『ソラリス』の主人公・クリス・ケルビンによる最後の語りを彷彿とさせる。「残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ」と語るあのシーンだ。最終的な結論として異質な他者との対峙を選ぶクリス・ケルビンの態度は、残されたお姉さんを巡る「究極的な問い」と「信念」をもって向き合おうとするアオヤマ君の態度と、どこか被る。

▼『ソラリス』において描かれる惑星ソラリスは、それこそ人間の理解できる範疇を超えた未知そのものの存在だ。未知の存在はどこまでいっても未知の存在なので、そうした未知の存在がもたらす謎と向き合う行為とはすなわち未知とのコンタクトを根気よく試みる行為に他ならない。『ソラリス』の主人公であるクリス・ケルビンが最後に到達した「異質な他者との対峙」を巡る結論の背景にあるのは、そういった観点だとぼくは思う。

▼人間には理解できない異質な他者と科学者的な冷静さで対峙し、コンタクトを試みる態度……それは『ペンギン・ハイウェイ』のアオヤマ君にそっくりそのまま引き継がれている。お姉さんを巡る「究極的な問い」の答えが謎のまま残ることで、アオヤマ君は人間の理解の範疇を超えた異質な他者=お姉さんに向けて残りの人生を賭けたコンタクトを試み続けるための「信念」を得るというわけだ。『ソラリス』から『ペンギン・ハイウェイ』に引き継がれた主題は、この辺りに関するあれこれに相違ない。

▼お姉さんを巡る「究極的な問い」が謎のまま残されることで、この『ペンギン・ハイウェイ』という物語は完成する(そのため、お姉さんが本当は何者で何のために生まれてきたのか? という問いの答えをぼくら観客が導き出すことは不可能だろう。何より導き出すための材料があまりない。それは物語終了時点のアオヤマ君も同じことだ)。お姉さん側の気持ちはどうなるの? という問題は一端脇へ置くとして、アオヤマ君が人間の理解の範疇を超えた異質な他者=お姉さん(あるいは「世界の果て」)へコンタクトを試み続けるための「信念」は、お姉さんを巡る「究極的な問い」の答えが謎のまま残されることによって完成するのだ(あくまで前向きなラストのモノローグが残す余韻がきわめてウェットなものである理由も、この辺にある)。

▼なぜお姉さんは「お姉さん」という形態でこの作品に登場しなければならなかったのか? という話について。この作品の建てつけとしてめちゃくちゃ良いなと思うのは、そもそも精通さえ経験していない(?????)アオヤマ君にとって、自分の母親でも友だちの母親でもはたまた学校の先生でもない「親しい大人のお姉さん」というのは、まさに異質な他者そのものと位置づけられる存在だったのではないか、という点である。その点、通っている歯科医院で働く美人で気さくで面倒見が良くておっぱいが大きいお姉さん(歯科衛生士)という位置づけは、アオヤマ君とお姉さんを隔てる距離感の表現としてきわめて上手い。上手すぎてビビるほどだ。アオヤマ君にとっての初期段階として、なぜだかわからんが心惹かれる年上の親しいお姉さん(=異質な他者)が、あれよあれよという間にマジモンの異質な他者として理解されてゆき、彼女(=異質な他者)の在り方についての「究極的な問い」との対峙を余儀なくされてゆくという筋立てはかなり上手い。そういうわけで(?)、クリス・ケルビンにとっての「幽体」あるいは「海」あるいは「惑星ソラリス」と、アオヤマ君にとってのお姉さん、この両者は物語上の位置づけにおいてまぁまぁ同じといって良いのであるが、そう考えると『ペンギン・ハイウェイ』と『ソラリス』を関連づけて読み解く上でのきわめて有効な補助線になりはしないだろうか?

▼ヒント、というほど大それた話ではないが、『ソラリス』を援用することでほんの少しだけ理解が深まる箇所がある。クライマックスシーンにおいて描かれる「海」の内部に関する描写だ。そもそも『ソラリス』における惑星ソラリスの「海」とは、人間の抑圧された記憶や一瞬頭のなかだけで思い描いたことなど、深層意識にあるものを実体化させる性質を持っていた。眠っている人間の頭の中から抑圧された記憶を抽出し、実体化させる性質もそこには含まれる。『ペンギン・ハイウェイ』の「海」≒『ソラリス』の「海」であるのだとしたら、お姉さんが夢で見たと話すジャバウォックが実体化された事実は、かなり注目に値する(一般的な読みでいうとお姉さん≒『ソラリス』のハリーではあるのだろうが、そう一筋縄ではいかないというのがこの描写ひとつでわかるはずだ)。眠っているお姉さんの深層意識から「海」が抑圧された記憶などを掬い取り、「幽体」めいて次々と実体化させていたのだとしたら……。実際のところ、悪夢にうなされるお姉さんが自室で身を起こすシーンにおいて、ベランダから屋外へ向かってジャバウォックが這い出ていったかのような描写が明確になされているので、眠っているお姉さんの深層意識を「海」が覗き見ていたことは明らかである。であるからして、「海」の内部にあったものがお姉さんの故郷であったり生家であったり、お姉さんの住むマンションの近くに聳え立つ巨大な給水塔であったり近所のイオンモールであったり、はたまた「海辺の街」のランドスケープがお姉さんの部屋の壁に貼ってあった写真(「ここに行く!」と付箋が貼ってあった写真)と同じものであったりした理由の説明は、一応つくものと思われる。特に蔦の這う廃墟と化したイオンモール海上にぽつりと建っている箇所は、『ソラリス』作中において「海」の真ん中に形成された島に広がる廃墟状の「擬態形成物(ミモイド)」の描写を思い起こさせる。「海」はお姉さんの深層意識内にあるものを雛形として、「擬態形成物(ミモイド)」のようなものを内部に生成していたのではないだろうか? そして蔦が生い茂っていた理由は……そのように考えていくと面白い。

▼更に更に。「海」の内部からもといた住宅街へと帰還し、お姉さんがアオヤマ君の手を引いて海辺のカフェまで走るシーン。ペンギンたちと同じように、街中へ溢れ出た「海」の一部(水球のようなアレ)をお姉さんが蹴って破壊していたカットも示唆的だ。お姉さんが大枠どのような存在か、明言こそされないものの、あの描写である程度示されているのではないだろうか?

▼『ソラリス』で描かれたあれこれを作中の描写と対照すると、お姉さんは「ソラリスの海」に深層意識を盗み見られる人間でもあり、食事を取らない「幽体」でもあり、また「幽体」や「擬態形成物(ミモイド)」を生成・形成する「ソラリスの海」そのものでもあり、もっといえば惑星ソラリス人智を越えた謎そのもの(=クリス・ケルビンが対峙する異質な他者そのもの)でもあるということができはしないだろうか。そんなふうに個人的には思っている。つまり「ソラリスの海」や「幽体」にまつわる着想元のネタは『ペンギン・ハイウェイ』の作中に細かく要素分解された状態で散りばめられていると考えられる。お姉さん≒『ソラリス』のハリーではあるのだろうが、そう一筋縄ではいかない、と先述したのはこの辺りの話に関してだ。

▼上述の描写群について諸々考え、最終的には「だから何だ」という結論に至らざるを得なかった。やっぱり、お姉さんが本当は何者で何のために生まれてきたのか? という問いの答えをぼくら観客が導き出すことは不可能だと思う(お姉さんに関する「究極的な問い」が明かされないことそのものが、着想元である『ソラリス』に対する森見氏からの最大限のリスペクトであるようにも読めるから、お姉さんはやはり謎のお姉さんのままであるべきだということもできるだろう)。

▼「海」の内部に関する描写で『ソラリス』との関連事項をもうひとつ。波打ち際でゼリー状のシロナガスクジラなどが次々と生成されてゆく際の描写について。お姉さんが「神様が遊んでいるみたい」と言う描写に関しては、「ひょっとしたら、まさにこのソラリスは、きみの言う神の赤ん坊のゆりかごなのかもしれないな」という『ソラリス』におけるスナウトのセリフと対応しているものと思われる。惑星ソラリスの「海」が人間にもたらすあらゆる不可解な現象は、実のところ神の赤ん坊が人間には理解できない次元で遊び戯れた結果にすぎないのではないか……というのがそのセリフの意図するところであるが、そうして考えてみると、『ペンギン・ハイウェイ』の「海」がもたらしたあらゆる現象もまた、神の赤ん坊が人間には理解できない次元で遊び戯れた結果なのではないか? と考えることができるかもしれない(アオヤマ君がこれから対峙しなければならない「未知」とはすなわち、そういった人間には理解できない次元で神が遊び戯れているかのように見えるレベルの「未知」である)。

▼ところで上述のシーン、お姉さんのセリフが原作から少々改変されており、これがなかなかニクいセリフの改変だ。原作では「神様が実験してるみたいだな」と言うところを、映画版では「神様が遊んでいるみたい」とお姉さんは言う。「神様が遊んでいるみたい」と言う方が、『ソラリス』へ捧げるオマージュという意味合いはもちろん、「海」がもたらす未知の現象に対する「わけのわからなさ」が前景化するのではないだろうか(当該のセリフを発する際のお姉さんの声音は楽しげでもある。それこそ冒頭、突如現れたペンギンのことを指して「ペンギンってのも不思議だねぇ、わけがわからんねぇ」と言っていたときのニュアンスに近い)。

▼余談だが、唐突に現れた海岸沿いにお姉さんの故郷の街並み(および生家)が現れる原作および映画版の描写は、タルコフスキー版『惑星ソラリス』のラストシーンからモチーフを取ったものではないかとぼくは思う。そう多くない共通項から反射的に導き出した推測に過ぎないが……。

▼それより何よりおねショタの話がしたい(!?)。アオヤマ君がお姉さんを巡る謎を解いてゆく過程において、非常にLoveい描写がひとつある。コーヒーに関する描写がそれである。序盤、海辺のカフェでアオヤマ君がお姉さんとチェスの対局をするシークエンス内において、2人がオーダーした飲み物が一瞬だけ映し出されるカットがあったことを覚えているだろうか? テーブルの上、アオヤマ君側に置かれているのはグラスに注がれたメロンソーダ(サクランボとアイスクリームつき)、お姉さん側に置かれているのがコーヒーカップであり、ここにおいてアオヤマ君はまだコーヒーを飲める年頃ではないことが明示される。おまけにこの時点でお姉さんのおっぱいを見ているアオヤマ君は、自分がなぜお姉さんのおっぱいに目を惹かれてしまうのか分からない。

▼お姉さんがコーラの缶をペンギンに変える瞬間を目撃した日の翌朝、アオヤマ君は興奮気味に「お姉さんについて早急に研究しなければならない」という旨を父親へ向けて報告し、次いでコーヒーを飲みたいとせがんでみせる。そのとき、おそらくアオヤマ君は人生で初めてコーヒーを飲んだに相違なく、父親の「苦いぞ」という忠告通り、苦味に耐えかね「うへぇ〜〜〜」という表情を浮かべて苦悶するのである。そしてあの瞬間、アオヤマ君は間違いなく大人への階段を1歩だけ昇ったのだ。「お姉さんはとても興味深い」という旨を熱っぽく語るアオヤマ君の表情を見、父親が「それは素敵な課題を見つけたね」と言うくだりがとても良い(そもそも『ペンギン・ハイウェイ』という作品は、アオヤマ君が大人になるまでの3千と888日のうち、彼が最も大きな経験をした日々を切り取った物語である)。

▼最終盤。海辺のカフェでお姉さんとの別離を経験するシーン。序盤のチェスのシーンを反復するかのように、2人の飲み物が映し出されるカットがある。そこにはコーヒーカップが2人分並んでいる。アオヤマ君は自らお姉さんにコーヒーが飲みたいと言い、砂糖はいらないと言い、その中身を口にした。かつて大人の飲み物の味に苦悶していた頃のアオヤマ君の姿はそこにはない。その身長差から見上げるだけだった憧れのお姉さんと、最後の最後、別れの間際において、アオヤマ君はいわば対等の存在としてテーブルにつくことができたのだ。

▼お姉さんのことが大好きだったのだという自分自身の感情に、そのときのアオヤマ君は気づいている。ここは原作の描写を読むとわかりやすい。逆にいうと、映像化することで抜け落ちる地の文関連の描写をコーヒーひとつでバシッと表現した映画版スタッフの手腕がここで光る。本当に素晴らしい、Love満載の脚色である(苦いのを我慢しているアオヤマ君の姿を見、「無理しちゃって」と笑うお姉さんの寂しげな声色もまた、切なさを誘う)。

▼注意深く観ていると、最後の海辺のカフェのシーンにおいて、お姉さんがひどく悲しげな表情を浮かべるカットがいくつもあることに気づくはずだ(鑑賞4回目で明確に気づくことができた)。そしてお姉さんは次の瞬間、アオヤマ君に向かって微笑みかける。彼女は最後まで涙を見せない。でも上述の「無理しちゃって」と言った次のシーン、彼女はアオヤマ君の隣に腰掛け、その小さな身体を抱き寄せる。「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ。君は見所のある少年だからな」という慈愛に満ちたセリフとともに……。

▼考えてもみて欲しい。ついこの間までアイスクリームつきのメロンソーダをオーダーしていたアオヤマ君が、なぜいま目の前で無理をしてまでブラックコーヒーを飲んでいるのか。お姉さんにその理由が分からなかったはずがないとぼくは思う。そのとき生じたであろうお姉さんの感情と、そして彼女が一瞬だけ浮かべたひどく悲しげな顔について考えると、本当に胸が締めつけられるような心地がする。そうした描写のあれこれから、やはりあの別離の場において、お姉さん側の物語が描かれていたのは間違いないとぼくは思う。

▼それにしても、砂糖はいらないと言って無理をしてまでブラックコーヒーを飲んでみせるアオヤマ君に対し、お姉さんが「無理しちゃって」と悲しげな声色で言うのシーンは本当に切ない。いずれ再会を果たしたアオヤマ君とお姉さんが、「あの日」と同じようにテーブルを挟み、淹れたてのブラックコーヒーを飲みながら「この頃のぼく」について語り合えればどんなに良いだろうかと、そんなふうに思う次第だ(それはアオヤマ君がお父さんの年齢になったときに実現することかもしれないし、お爺さんの年齢になったときに実現することかもしれない。もしかしたら、アオヤマ君はそのときが訪れるのを待たずにこの世を去るかもしれない。そんな可能性さえある。彼がいつお姉さんとの再会を果たすのか、そもそも再会できるのか、観客である我々は知る由もない)。

▼海辺のカフェを出たお姉さんが空き地の中央に向かって歩み去ってゆくカット。そのとき、彼女の目は大部分が影になっていて描写されない(泣いているようにも、泣くのを我慢しているようにも、はたまた泣いていないようにも取れるよう意図的に設計されていると感じた)。最後の瞬間、彼女はアオヤマ君に向けて笑いかけながら手を振ったが、果たして本当はどうだったのか。その点について考え出すと、海辺のカフェから学校へ戻ったあと、校門でハマモトさんに抱きつかれるシーンにおいてアオヤマ君が泣き腫らしたような顔をしているようにも、あるいは本当に泣くのを我慢し切ったようにも見えるあのカットも少しばかり示唆的だ。泣かないと決めていると言いつつ、お姉さんがいなくなってしまった直後何だかんだ堪えきれずえんえん泣いてしまったアオヤマ君ももちろん良いが、やっぱりあのお姉さんと過ごした夏を通じて少しだけ大人になったアオヤマ君はお姉さんと再会を果たすそのときまで泣かないで欲しいとか、そんなことを思った。何の話だ?(ちなみに原作のアオヤマ君はお姉さんに言った通り、泣いていない)

▼まだまだ書きたいことが盛りだくさん。③へ続く。

 

【ネタバレ有り】映画版『ペンギン・ハイウェイ』のこと①

▼2018/9/9改訂:4回目鑑賞後、内容一部削除・修正。

▼以下はすべて個人的な感想にすぎないので、映画評とかそういうものでは全くない。そういうのを期待されると非常に困るので、そのつもりで読んで欲しい。それと、以下は9割方ぼく個人の記憶に基づいて書かれているので、もし事実と異なることを言っているのであれば指摘が欲しい。そんな具合だ。

▼書きたいことが多すぎるので記事を分割することにした。

▼映画館に何度も足を運んで観たくなる映画というのは数年に1本程度あるもので、前回はデンゼル・ワシントンの『イコライザー』が「それ」だったのだが(10月に2作目が公開になる)、「その次」がこのタイトルだったというのは自分でもいささか意外だったというか、そんな感じだ。あまりにギャップがありすぎる。「ひと夏の冒険……少年……ボーイ・ミーツ・ガール……やがて訪れる別れ……残された少年の胸に残ったもの……」こういった映画を素直に楽しめる自分がまだいたのか、そういった類の驚きさえ覚えたほどだ(ところで、かつて作られた伊藤計劃作品のアニメ化の出来があまりに酷すぎ、もうアニメ映画は一切信用しないとまで言い切った自分が映画館に足を運んでアニメの映画を観たわけであって、あれはひとつの傷だったのだなと思い至った。年月の経過は傷を癒やす。実際、あれ以来ぼくは約1年と少しもの間一切アニメを観なかった)。

▼「おねショタ」以外、一切合切何の前知識もない状態で1回目を観て、未読だった原作を読み通し、2回目を観ても、やっぱり気になるのはお姉さんの感情に関わるあれこれだった。というより、原作を読んだ上で臨んだ2回目の方がより一層気になったというべきか。それは、アニメになって生き生きと動き回るようになったお姉さんの立ち振る舞いから誘発される感想には違いないのだけれど(他に適切な言い回しが見つからなかったのだが、映画版のお姉さんの振る舞いはまことに「人間らしい」)、もっと重要な理由があるということに、2回目でようやく気づくことができた。

▼というのも映画版の終盤、1つだけ原作の本文にないセリフが足されていたからだ。お姉さんが最後に「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」と寂しげに言い残すシーン。あれである。原作のお姉さんは(こういう言い方が適切であるかどうかはわからないが)いともあっさりアオヤマ君のもとを去ってゆく。それと比べた場合、映画版で描かれる別離のシーンはまったくもって印象が異なるという他なく、原作を読んだ翌日に2回目を観たぼくはその差分に気づいた瞬間、思わず大声を出しそうになった。無論上映中なので黙っていたが、それにしたって上記のセリフ1つが足されるだけでこうも印象が違うのかと思わざるを得ない、そんな素晴らしいアレンジだったと思う。

▼あのセリフはおそらく「海」の破壊に出立する直前においてお姉さんの口から語られる「私なりに未練でもあったのかね?」のセリフによって張られた伏線を回収しており、ということはつまりお姉さんがジャバウォックを生み出す理由って「そういうこと」なんだと個人的に思うわけだが、作中において唯一語られるお姉さんの本心(=感情)が「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」のセリフ1つだというのは、なかなかどうして強烈だ。もし叶うことなら、アオヤマ君が立派な大人になったその日の姿を、お姉さんは見たかったのだ。何て切実な願いなのだろう。

▼お姉さん側のことなんて作中でほとんど描かれないから想像のしようもない(原作では、どちらかというとそういう類の描かれ方をされていたように思う)、という感想は大いにありえるべきだと思う一方、アオヤマ君を優しくぎゅっと抱き締めながら「君が本当の大人になるところを見ていたかった」と寂しげに言うお姉さんの感情を考えると、そのセリフが放たれる瞬間において描かれていたのは紛れもないお姉さん側の物語だったんじゃないかと、そんな風に思えてならなない。もうすぐ自分はこの世界から消えねばならない。そのことを確信していながら、アオヤマ君に「泣くな」と言いつつ、でも「本当の大人になるところを見ていたかった」とその本心を言葉にしてアオヤマ君へ伝えてみせ、そして「私を見つけて、会いにおいでよ」と最後に結ぶ、そのあたりの機微が実に切ない(アオヤマ君だって、立派な大人になった自分の姿をお姉さんに見せたかったはずなのだ)。

(2018/9/11追記:ぼくはあほ、もしくは抜け作なので、「私はなぜ生まれてきたのだろう」の問いかけが原作通り最後の海辺のカフェのシーンで言われるセリフだったという事実に鑑賞3回目でようやく気づき、それを再確認するため4回目を観、「私はなぜ生まれてきたのだろう」の問いが海辺の街の階段で投げかけられるというのはまったくの記憶違いであることを確認した。申し訳ない。以下、事実に基づき論旨を大幅に削除・修正した)それだけではない。終盤、アオヤマ君がお姉さんとの別れを経験する海辺のカフェのシークエンスは、セリフの前後関係も入れ替えられている。「私も、私の思い出も、みんな作りものだったなんて」と語られるお姉さんのセリフは、原作では別れの間際に言われるセリフであったが、映画版ではその前段、「海辺の街」の階段をゆっくりと昇ってゆくシーンにおいてモノローグめかして挿入される。これもまったく印象が違う。というより本来、「海辺の街」の階段で言われるべきセリフであったのではないかとさえ思えるほど、素晴らしいアレンジだったと個人的に思っている。お姉さんが自分の生家だと認識している家の窓を見上げるカットにおいて、そうした問いかけがオーバーラップするものだから、余計にそうだ。どう見ても常世のものとは思えぬ無人の「故郷」の街並みを歩きながら、お姉さんは自らの出自に関する謎をアオヤマ君へ問いかける。画によってセリフに説得力が生じている点で、あれは本当に良いアレンジだ。

▼というわけで、「本当の大人になるところを見ていたかった」「私を見つけて、会いにおいでよ」というお姉さんがアオヤマ君に最も伝えたかった事柄は、最後の最後、二人の旅路の終着点である「海辺のカフェ」において伝えられる。お姉さんが再びアオヤマ君に会うためには彼に先述の問いを解いて貰う必要がある。それはきっと長い年月を費やさなければ解けない類の難問であるだろうし、もしかしたらアオヤマ君が一生かけても解けないほどの難問であるかもしれない。というより、そういった可能性の方が高いようにも思える。お姉さんにようやく会えるのは、もしかしたらアオヤマ君の孫、あるいは曾孫の世代かもしれない、などと妄想をたくましくすると相当切ない(もっとも、アオヤマ君のモノローグを参照すると、自身にお姉さん以外の女の人と結婚する意思はないようである)。

▼それでもアオヤマ君は(彼のいうところの)「信念」に基づき、お姉さんに再び会うため日々研鑽を重ねるのだ。お姉さんがどれだけ大好きだったか、どれだけもう一度会いたいと願っているか、そんな想いを胸に、彼は「世界の果てに通じている道=ペンギン・ハイウェイ」を全速力で駈け抜けてゆく。おそらくは物語が終わったその後もずっと、彼は「世界の果て」に向かって突き進んでいくだろう。……ぼくはこういう結末に極めて弱い。フィクションには終わりがあるが、フィクションが終わったあともその登場人物たちの人生は続いてゆく。そんな類の結末に滅法弱いという次第だ(それを補強するかのような原作にないオリジナルのラストカットと、エンドロールにおいて流れる宇多田ヒカルの主題歌(書き下ろしらしい)も相俟って余計くるものがある)。大人になったアオヤマ君は果たしてお姉さんと再会することができたのだろうか?(原作に続編がない以上、この問いには明確な答えがない。当たり前の話だが、再会できたか否かの答えが明かされないことによって、この作品の結末はより強力なものになっている)

▼先述の「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」というお姉さんの言葉は、「私を見つけて、会いにおいでよ」という言葉の動機をある種明示したものに他ならず(お姉さんが「会いにおいで」と言う動機をそのセリフ1行によって明示したのは、本当に大胆かつ良いアレンジだとぼくは思う)、その言葉はアオヤマ君の「信念」を、それこそ原作で語られる「信念」よりもずっと強固なものにしたに違いない。「世界の果て」でアオヤマ君との再会を待ち侘びるお姉さんに、アオヤマ君は立派な大人になって会いに行く。そうすることで、ようやくお姉さんの望んでいた願いは叶うのだ。

▼そんなこんなでぼくは、どうしてもお姉さん側の物語に惹かれてしまう。消える間際、いつか立派な大人になったアオヤマ君が自分を見つけて会いにきてくれたら嬉しいなとか、そんなことを考えていたのだとしたら、とか、そんな具合に。

▼お姉さんは立ち振る舞いや表情、その他様々な仕草でもって色んなことを語ってくれる。中盤、ハマモト先生が去って行ったあとの歯科医院入口に佇んでいるところとか、ポケットに手を突っ込んで立ちんぼになりながら、何かの終わりを予期して物思いに耽るかのようなあの表情に、ぼくは彼女の側の物語を垣間見た(おそらく、あのときの表情は海へ向かうくだりにおける「夏休みが終わってしまうね」「どんなに楽しくても、必ず終わりは来ます(※ここのアオヤマ君のセリフのディティールがうろ覚え)」のやり取りと対応している)。

▼少し話は逸れるが、そもそもあの新興住宅地において初めてペンギンが目撃されたタイミングが物語冒頭であったのだとしたら、お姉さんはいつからあそこに「いる」のだろう? というのも謎のひとつだ。いつの間にかいるはずのない人間(の外観をしたもの)が「いる」ことになっていて、当たり前の存在としてあの住宅地の生活に溶け込んでいる、というのがもし仮にお姉さんという存在のあり方だったのだとしたら……とか、色々妄想をたくましくすると面白い。何せ、お姉さんは過去に何度もペンギンを出したことがあるかのような口ぶりで自己の能力の内実を語るが、そもそもペンギンが初めて目撃されたのは物語冒頭の時点なのである。とはいえ、この辺りの大ネタ(特にお姉さん周り)は「スタニスワフ・レムの『ソラリス』を読んでから言え」感が当然ある。『ペンギン・ハイウェイ』の着想元がレムの『ソラリス』であるためだ(読んでから3回目に行こうと思っている、この映画のお陰で十数年間積んでいた本に手をつけることができた。ちなみに積んでいたのは国書刊行会Verの新訳単行本であったが、Kindleでハヤカワ青背版が出ていたためそちらを買い直した)。

▼映画のパンフレットにはアオヤマ君のノート(!!!)が付録としてついている。そこでは「海」がどこか別の場所にも出現する可能性について言及されている。「海」と「お姉さん」と「ペンギン」と「ジャバウォック」がワンセットなのだとしたら、仮に別の場所に「海」が現れた場合、そこにお姉さんもいるのではないだろうか……? などと考えてしまう。『ペンギン・ハイウェイ2(そんなものはない)』がありえるのだとしたら、この筋立てかな……などと脊髄反射的に連想が繋がってしまうのはモノ書きとしての性ではあるものの、しかしそれはちょっと読んでみたいぞ、という気がしなくもない。が、「海」の大枠の謎はアオヤマ君によってあらかた解かれてしまっているので、やっぱり『ペンギン・ハイウェイ2』はないと考える方が筋が通る。何の話だ。

▼子どものアオヤマ君から見たお姉さんと、大人のアオヤマ君(?)から見たお姉さんは全然違って見えるのではないかと思う。子どものアオヤマ君から見たお姉さんはとても興味深くミステリアスで素晴らしい「研究対象」となる存在であるが、大人のアオヤマ君(?)から見たお姉さんは、お茶目で豪快で快活で、知的で俗っぽくもありつつ世慣れているようで、その実子どもっぽい一面も併せ持つ素敵な女性として映るのではないだろうか……? 自分でも何を言っているのかもはや分からないが、そんなふうにちょっと角度を変えて見るとなかなか楽しい。

▼お姉さんの喪失にまつわる記憶はアオヤマ君の今後の人生においてある種の「傷」として残り続けるのではないか、とぼくは思う(だからこの物語を単純に「アオヤマ君の成長譚」と括ってしまうのはどうか、と個人的に思っている。ある種の「傷」は人を成長させるのだとしても、だ)。あんなに大好きだったお姉さんが目の前から消えてなくなってしまうのは、それこそ耐えがたい悲しみに相違ない(でもアオヤマ君は泣かないのだ)。無論、そうした「傷」の痛みとはすなわち、後のアオヤマ君を「世界の果て」まで運んでいってくれる原動力に他ならないのだが、そうしたあれこれを経てお姉さん側のセリフに立ち戻ってゆくと、「私を見つけて、会いにおいでよ」というお姉さんの言葉の意味合いがズシリと重くなってゆく。彼女は決して「私のことを忘れてくれ」とは言わない(自分がいなくなった後の世界をアオヤマ君は生きていく、そのことの辛さをお姉さんが分かっていなかったはずがない。その辺の大したことないフィクションであれば、お姉さんに「私のことは忘れて、今後は自分の人生を生きてくれ」的な、ひどく凡庸なことを言わせたであろう。だがこの作品はそうしない。そこが重要だ(※この辺りの設計の背景として、レムの『ソラリス』があるのは理解している))。むしろ「君ならできる」とばかりに残された謎を解いて欲しいと言い残す。「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」「私を見つけて、会いにおいでよ」とも。お姉さんはアオヤマ君の心に、そうしたある種の爪痕を残した。これらの事実は原作ではそれほど前景化していないものの(原作の別離のシーンは本当にあっさりしている。映画版を観たあと当該シーンを読むと驚くこと請け合いだ)、映画版では強烈に前景化している。もちろん、映画版において足された「君が本当の大人になるところを見ていたかったよ」のセリフが効いていることは疑う余地もない話だ。お姉さんは自分の想い(感情と言い換えてもいい)をはっきりと言葉に残し、アオヤマ君のもとから去っていった。想いは言葉にしなければ伝わらないし、残らないものだ(お姉さんの寝顔を見た瞬間、アオヤマ君の胸中に湧いて出た想いがスケッチに添えられたメモとして残ったように)。だから、お姉さんの残した切実な想いは言葉になってアオヤマ君の記憶に残り続ける。彼の記憶に残るお姉さんの言葉は、お姉さんが「作りもの」だったのかもしれないと自己言及した人生の中で得た、確かな実体ある想いであるとぼくは思う(その実体ある想いを得るに至るまでに彼女が通った道筋は、お姉さん自身の物語に他ならない)。そうした想いを言葉として受け取って、アオヤマ君はその後の人生を生きていく。

▼作中でハマモトさん→アオヤマ君へのLOVEが示唆されていながら(パンフレットに掲載された相関図にはそういった内容の事項が明記されている。まぁ、本編を観れば分かることだ。最後にわざとらしいカットさえ差し挟まれる次第なので、その辺は誰が観ても分かるように設計されている)、ラストシーンに至っても、アオヤマ君は「けれどもぼくはもう相手を決めてしまったので」などと冒頭と全く変わらないことを口走る。だが、上記のお姉さんの言葉を受け取ったのちに語られる「けれどもぼくはもう相手を決めてしまったので」という言葉は、必ず会いに行くという決意を伴ったものに相違なく、冒頭のそれよりもいささか想いの質量を伴ったものに聞こえてしまう。そういうわけだから、この物語はアオヤマ君が「世界の果て」を目指す強烈な動機(=「信念」)を得る物語ではあるけれど、それは「成長譚」などと安く括られて良いようなものだろうか……? というのはあると思う。「これはアオヤマ君にとっての「成長譚」だ」という感想のみを抱いた方がもしいたのだとしたら、どうかお姉さんの気持ちを汲んでやってはくれまいか。アオヤマ君が最後に語る「信念」は、そうしたお姉さんの気持ちと表裏一体のものに違いないので……。

▼やっぱり最後にお姉さんがアオヤマ君に伝えた彼女自身の想いはあまりに切実すぎるとぼくは思う。ラストシーンののち、じくっと胸が疼くような心地を覚えるのは、それが理由だ。「結構ウェットだなぁこの話」というのが、ぼくにとっての当面の結論(繰り返すが、ウェットな物語をぼくは好む)。

▼書きたい感想はこれの倍以上あるのだが、疲れたので今回はここまで。気が向いたら(というか、『ソラリス』読了後に3回目を観たら)また②を書くかもしれない。何しろ、この映画の「おねショタ」的側面についてまだ全然言及できていない(この映画、『ソラリス』が着想元のSFだ何だというのは一旦脇に置いておくとして、めちゃくちゃウェットかつLoveい「おねショタ」以外の何だっていうんだ?)。

▼感想の続きは以下にて。